榴岡天満宮

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概要・歴史・観光・見所
榴岡天満宮(仙台市)概要: 榴岡天満宮は宮城県仙台市宮城野区榴ケ岡に鎮座する神社です。榴岡天満宮は案内板によると「 藤原基衡の臣、佐藤小太郎基春が国分荘の領主となったとき、柴田郡川内邑(今の川崎町川内)から小俵邑(今の小田原)玉手崎に遷した神社であったが、慶安三年(1650年)東照宮建立に際してここに遷された。寛文七年(1667年)三代藩主綱宗公が改築したが丹塗りの唐門を残して、漢文七年(1795年)社殿を焼失した。今の社殿はその頃の再建せある。 仙台市 」とあります。

榴岡天満宮は由緒上、天延2年(974)に山城国(現在の京都府)で創建されたとされます。意味は良く判りませんが、京都の地で当社が創建されたのか、それとも本社と思われる北野天満宮(京都府京都市上京区)か、それとも別に本社があり、その神社が創建されたのか何れと思われます。因みに北野天満宮とすれば天暦元年(947)に初めて社殿が造営されたとされる為、当社の由緒とは当てはまりません。その後、平将春が陸奥国宇多郡(現在の福島県相馬市・相馬郡新地町)に勧請したとされる為、この時に本社から分霊が勧請され当社が創建したと考えるのが無難と思われます。平将春がどの様な人物かは判りませんが、宇多郡は相馬家の本拠地で、相馬家が平将門の後裔を自称している事から一族や関係者なのかも知れません。

一方、江戸時代に仙台藩の命により領内の地誌として編纂された「奥羽観迹聞老志」によると天延2年(974)に平持村によって陸奥国宇多郡八幡崎に勧請されたものと表現されています。素直に考えると由緒上の平将春と地誌上の平持村は同一人物という事になりますが真偽の程は全く判りません。相馬家の居城である中村城の城内には坂上田村麻呂の家臣である菅原敬実が氏神を祭ったとも、北野天満宮の分霊を勧請したとも伝わる北野神社が鎮座し関係性が窺えます。

その後、由緒上では柴田郡川内邑(今の川崎町川内)に遷座したとあり、現在でも天神社が鎮座していますが、天神社の由緒は天暦2年(948)に川内村の古老の霊夢に御告げがあり勧請したと伝えられ、当社の由緒とは異なる経緯となっています。その後、当社の境内に設置されている案内板には奥州平泉の藤原基衡の家臣である佐藤小太郎基春が国分荘に配された際に小俵玉手崎(仙台市青葉区の東照宮の地)に遷座(勧請?)、由緒上は天文20年(1551)となっている為、案内板とは整合が取れていないようです。又、地誌では文安元年(1264)に島津某が遷座させたとあり、こちらも異なる記載となっています。何れも統一的なものでは無く、後世に創作された由緒だった事が推察されます。

個人的な見解としては砂金本郷(現在の宮城県柴田郡川崎町本砂金)を本拠とした砂金氏が関係したように感じます。当然明確な根拠はありませんが、一つは砂金氏の出生は諸説あるものの、その内の1つに源義経の家臣で衣川の合戦の後に砂金本郷に流れ着き土着したとの説があります。榴岡天満宮は由緒上に出現する佐藤小太郎基春は奥州藤原氏の家臣佐藤基晴の事である可能性があり、その子供である継信と忠信は源義経の従者として知られている人物です。砂金氏と佐藤氏との直接的な関係は判りませんが、砂金氏が義経の家臣を自称する際には佐藤氏が念頭にあった可能性はあります。

もう一つは砂金氏が菅原姓を掲げていた事で、当然、菅原姓の氏神は菅原道真である事から奉斎していた可能性は非常に高いと思われます。そうなると、川崎町の天神社は、延元年間(1136〜1139年)に砂金常重が砂金本郷に土着した際か、文治5年(1189)に発生した衣川の戦い以後に創建された可能性が高いと思われます。天神社から小俵玉手崎に遷座した事については、島津某が陸奥守だったとの地誌に記載されてる事から、代々陸奥国留守職を継承した留守氏である可能性が高いと思われます。留守職は戦国時代には既に形骸化していたと思われますが、戦国時代にも形式上柴田郡砂金郷は留守氏が領主で伊達氏の付け人である砂金駿河が管理していた事になっています。

小俵玉手崎に鎮座した天満宮は当初は留守氏によって庇護されていたと思われますが、時代が下がると国分氏の支配下に入り、その庇護を受ける為に由緒の創作する必要性があったのではないでしょうか。留守氏と国分氏との間には長く抗争が続き、当然、砂金氏と国分氏との間にも対立関係があったと思われます。天満宮が砂金氏の氏神で留守氏から庇護を受けていた事は、国分氏の庇護を受ける身であれば都合が悪い事から、国分氏と関係が深い由緒に書き換える事が求められた可能性が高いと思われます。

国分氏の出生については不詳な点が多いのですが、一説には平家の流れを汲む千葉介常胤の五男国分胤通が宮城郡国分荘を賜ったことを起源とする説があります。そして、相馬家の祖とされる相馬師常も千葉介常胤の子供である事から、相馬家と国分家は親戚筋という事になります。天満宮はこの関係性を利用して、親戚筋の相馬家が祭った天満宮の分霊を、関係者と思われる平姓の人物が勧請された神社が柴田郡川内邑に鎮座する天満宮とし、そこからは島津某や佐藤小太郎基春の名前を使い勧請したことにしたかも知れません。

江戸時代に入ると仙台藩主伊達家の崇敬社となり、仙台城築城の際に境内の樹木を伐採して利用した事などから神意に感謝し社殿が造営されています。慶安3年(1650)に仙台東照宮が造営されると現在地に遷座し寛文7年(1667)に3代藩主伊達綱宗より本殿や拝殿だけでなく神門や神楽殿など多くの建物が造営され「照星閣」と称されていたようです。

現存する榴岡天満宮唐門(神門)は向唐門と言われる形式で、銅板葺、一間一戸の建物で、外壁全体が朱塗り、「天満宮」の社号額が掲げられ、蟇股や組物が凝った造りになっている貴重な建物として平成7年(1995)に仙台市登録文化財に登録されています。榴岡天満宮拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行3間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造板張り、正面中央には「天満大自在天神」の扁額が掲げられています。本殿は一間社入母屋造り、銅板葺き、平入、外壁は真壁造板張り。

江戸時代中期には榴岡天満宮に松尾芭蕉が参拝に訪れており「ここ玉田よこ野つつじが岡はあせび咲くころ也ここに天神の御社など拜て其日はくれぬ」という句を遺しています。平成27年(2015)に境内と榴岡公園の一部31115.76uが「おくのほそ道の風景地」として国指定名勝に指定されています。榴岡天満宮境内は神域だった事から古木大木が多く平成14年(2002)に「仙台市 杜の都 緑の名所100選」に選定されています。祭神:菅原道真(天満大自在天神)。

榴岡天満宮:社殿・境内・写真

榴岡天満宮参道沿いに設けられた朱色の鳥居
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榴岡天満宮手水舎と撫で牛と石碑 榴岡天満宮唐門(神社山門)とその前に置かれた石造狛犬 榴岡天満宮拝殿と前に置かれた石燈篭と奉納された絵馬 榴岡天満宮本殿と幣殿と板塀


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