【 概 要 】−伊達綱宗は寛永17年(1640)、仙台藩2代藩主伊達忠宗と貝姫(櫛笥隆致の娘)との子供として仙台城二ノ丸で生まれました。万治元年(1658)、忠宗の死去に伴い伊達家の家督を継ぎ、仙台藩3代藩主に就任しています。万治2年(1659)には貞山堀の塩釜村浦海から蒲生村までの開削工事を行った際、工事の安全と成就を祈願する為に社殿を造営し当地が播州高砂浦(兵庫県高砂市)の風景に酷似している事から高砂神社と名付けたと伝えられています。万治3年(1660)には従来3年又は5年かかっていた新田開発期間を9年に延長する通告を発布しています。同年には祖母である陽徳院(伊達政宗の正室)の霊屋(宮城県松島町:国指定重要文化財)を造営しています。同年には江戸城の小石川堀の普請役を担っています。
万治3年(1660)に綱宗は不行跡により幕府の命で強制隠居となり、嫡男である亀千代(後の伊達綱村)が家督を継いでいます。隠居の理由は諸説あるものの不確実のものが多く、後に伊達騒動が発生し、それを題材として講談や芝居、現代でも映画やドラマが綱宗を極端に悪く描いている事から悪いイメージが定着しています。隠居後は大井屋敷で生活を行い、元々聡明で諸芸に通じていた事から、絵画、和歌、書、蒔絵、刀剣など多くの作品を残しています。正徳元年(1711)死去、享年72歳、戒名:見性院殿雄山全威大居士、瑞鳳殿の隣地にある善応殿に墓碑が建立されています。
伊達綱宗の名は隠居後も綱村が元服が迎えるまで、社寺の保護の際の名義として利用されており、寛文3年(1663)には塩釜神社(宮城県塩釜市)の社殿を大改修、寛文7年(1667)には榴岡天満宮の本殿、拝殿、神門、神楽殿などを造営しています。
伊達綱宗の縁の社寺は側室である椙原品(高尾太夫)の邸宅の門が高尾門として瑞鳳寺(宮城県仙台市)に移築されています(仏眼寺は側室である椙原品(高尾太夫)の菩提寺)。寛永19年(1642)に綱宗の生母である得生院が死去すると善導寺が菩提寺となっています。綱宗が重篤になった際、津田春康が興福寺観音堂(宮城県登米市)で病気平癒の祈祷が行われています。
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