【 概 要 】−伊達周宗は寛政8年(1796)に仙台藩8代藩主伊達斉村と興姫(誠子:鷹司輔平の娘)との子供として生まれました。しかし、興姫(誠子)は出産の無理が祟り同年に死去、さらに、その数日後に祖父である伊達重村が死去、その数か月に斉村も死去します。本来、乳飲み子だった周宗は大藩である仙台藩の藩主には相応しくない状況でしたが、斉村の死を隠し、その間に末期養子を認めさせ、さらに11代将軍徳川家斉の娘である綾姫と婚約する事でこの危機を乗り越え仙台藩9代藩主に就任しました。
政務は観心院(仙台藩7代藩主伊達重村の正室)と有力家臣達が行いましたが、災難が次々と襲い、周宗が藩主に就任して1か月後には江戸仙台藩邸が火災により焼失、寛政9年(1797)には最大規模の百姓一揆が発生、家臣達が叛乱を画策、綾姫の死去、文化2年(1805)には観心院が死去、文化5年(1807)には幕府から蝦夷地の警備兵派兵を命じられ1千7百人を派兵、文化6年(1809)には自らが疱瘡に罹り危篤、文化9年(1812)には仙台城の二ノ丸に雷が落ちそれが原因で火災となり焼失、同年に死去、享年17歳、戒名:青龍院殿故陸奥国主紹山隆公大居士。菩提寺は瑞鳳寺、墓碑は経ヶ峯伊達家墓所(宮城県仙台市青葉区霊屋下)。
周宗の享年は公式記録だと17歳ですが、諸事情を鑑みると文化6年(1809)に疱瘡に罹り危篤なった際、快方に向かわずそのまま病死したと考えられています。幕府の規定により当主が17歳未満の場合は末期養子が認められない事から、死没してから3年間は生きているように見せかけ、17歳になった時点で弟である徳三郎を養嗣子として認めさせ、さらに病気を理由に隠居、頃合いを見て死亡届を幕府に提出したとされます。
伊達周宗は寛政11年(1799)に華足寺(宮城県登米市)の山門(宮城県指定文化財)を寄進、当時は三歳だった事から観心院の意向が強かったのかも知れません。文化6年(1809)には仙台藩兵の蝦夷地から凱旋帰還した事に感謝し塩釜神社(宮城県塩釜市)に銅鐵合製燈籠(文化燈籠:塩釜市指定文化財)を寄進しています。
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