伊達綱村

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伊達綱村
【 概 要 】−伊達綱村は万治2年(1659)に仙台藩3代藩主伊達綱宗と側室である三沢初子(浄眼院:三沢清長の娘)との子供として生まれました。万治3年(1660)、綱宗の隠居に伴い伊達家の家督を継ぎ、仙台藩4代藩主に就任しました。就任当初、綱村は幼児だった事から大叔父の伊達宗勝や叔父の田村宗良が後見人として藩政を司ったものの、家臣団は様々な派閥が入り乱れ対立した事から寛文11年(1671)に伊達騒動が発生しています。幕府の裁定で綱村の改易は免れましたが宗勝はじめ多くの家臣が処分され、結果的に綱村は権力の掌握が出来、自ら政務を取り仕切る事が出来るようになっています。

綱村の功績としては海岸部に防風林を植樹や、品井沼の干拓、運河を開削する事で物資の流通に尽力しています。その他には藩史の編纂や産業の振興、人材登用、文武の奨励などを行っています(綱村自身は学問好きで特に儒学を学び、仙台藩でも奨励しています)。幕政には直接関わっていませんが元禄2年(1689)から元禄3年(1690)にかけて日光東照宮(栃木県日光市)修復の総奉行である井伊直興の手伝いを行っています。

元禄6年(1693)、綱村の専制政治が行き過ぎた事から一族や有力家臣から反発を招き謝罪状をしたためさせられましたが、引き続き専制は収まらず元禄10年(1697)には強制隠居計画が画策されています。強制隠居は稲葉正往の尽力により未然に防がれましたが元禄16年(1703)には隠居に追い込まれています。享保4年(1719)死去、享年61歳、戒名:大年寺殿肯山全提大居士、遺骸は伊達家の菩提寺である大年寺に葬られ遺言により御霊屋が設けられず、以後の藩主もこれに習っています(大年寺は火災の為多くが焼失し梵鐘が大満寺に遷されています)。

伊達綱村は社寺の保護を積極的に行い、寛文元年(1661)には孝勝寺の堂宇を増築し境内を拡張、寺領500石を寄進、同年には華足寺(宮城県登米市)に寺領773文(約8石)を寄進、寛文3年(1663)には塩竃神社(宮城県塩釜市)表参道の鳥居を寄進、同年には天麟院(伊達五郎八姫)霊屋を造営、寛文4年(1664)には熊野神社新宮社(宮城県名取市)の本殿を造営、寛文6年(1676)には清浄光院(宮城県仙台市)の念仏回向道場を造営、寛文7年(1667)には榴ヶ岡天満宮(宮城県仙台市)を現在地に遷座し社殿を造営、寛文8年(1668)には大崎八幡宮(宮城県仙台市)の二の鳥居を寄進、寛文12年(1672)には塩竃神社を修造、貞享2年(1680)に横山不動尊(宮城県登米市)の本堂を造営しています。

伊達綱村は天和3年(1683)には亀岡八幡宮(宮城県仙台市)を現在地に遷座し社殿を造営、同年には義経堂(岩手県平泉町)を造営、貞享2年(1685)には諏訪神社(宮城県仙台市)に鳥居を寄進、貞享4年(1687)に生母である三沢初子の霊廟を造営(霊屋門が成覚寺の山門として移築)、貞享3年(1686)には生母である三沢初子の追善供養の為に三沢初子の持念仏だった釈迦如来像を祭る釈迦堂を元禄8年(1695)に造営(現在は孝勝寺の境内に移築)、元禄年間(1688〜1704年)には仙台城から傘松を泰心院に奉納、元禄10年(1697)には鉄牛和尚を招いて伊達家の菩提寺となる大年寺を創建、元禄13年(1700)には佐倍乃神社(宮城県名取市)の拝殿を修造し祭田二貫文を寄進、宝永3年(1706)に正室である仙姫の菩提を弔う為に開元山万寿寺を創建しています(霊屋門は大願寺の山門として移築されています)。

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