【 概 要 】−伊達吉村は延宝8年(1680)、伊達宗房と貞樹院(まつ:片倉景長の娘)との子供として生まれました。貞享3年(1686)、宗房の死去に伴い宮床伊達家の家督を継ぎ、元禄3年(1690)に元服し、仙台藩4代藩主伊達綱村から偏諱を賜り「村房」と名乗るようなっています。元禄8年(1695)に仙台藩の支藩である一関藩の藩主田村建顕の養嗣子に迎えられる事が内示されたものの、正式な届け出前に伊達綱村の要請を受け、綱村の養嗣子となっています。元禄9年(1696)に5代将軍徳川綱吉から偏諱を賜り「吉村」と名乗るようになり、元禄16(1703)綱村の隠居に伴い仙台藩5代藩主に就任しています。
吉村が就任した当時の仙台藩は綱村が行った数多くの社寺の造営や藩札を乱発した事で財政破綻していた事から、早急に藩の財政立て直しを行う必要性がありました。吉村は藩札の停止や領内総検地(失敗)、役職整理、貨幣鋳造、買米仕法などを矢継ぎ早で行ったものの家臣の反発も多く全てがうまく行ったとは言えない状況でした。さらに、正徳元年(1711)に日光東照宮(栃木県日光市)の普請を命じられた為、借財が嵩みました。
享保17年(1732)に西日本で大飢饉が発生し農作物の収穫が殆ど出来ない状況に陥りました。一方、仙台藩では稀に見る大豊作だった為、農家から余剰米を供出させ江戸で売りさばいたところ50万両強の収益を上げようやく財政再建の兆しが見えるようになりました。元文元年(1736)に後の藩校養賢堂となる学問所を開設、寛保3年(1743)に隠居(伊達宗村に家督を譲渡)、宝暦元年(1752)死去、享年72歳。
伊達吉村は大崎八幡宮(宮城県仙台市)を篤く崇敬し、吉村自ら描いた「大崎八幡宮来由記」の寄進、三之鳥居(扁額の「八幡宮」は吉村筆)の寄進、大絵馬「曳き馬図」、「舟弁慶図」の奉納、大元社の造営と本尊である大元帥明王木像(仙台市指定有形文化財)の奉納などを行っています。塩釜神社(宮城県塩釜市)の社殿造営は先代綱村からの事業を引き継ぎ竣工まで9年かけられ宝永元年(1704)に荘厳な社殿が完成、別宮、左右宮にそれぞれ太刀(宮城県指定文化財)を1振ずつ奉納しています。吉村が塩釜神社に参拝する際には法蓮寺の書院を休息所として利用しており、そこからの風景が絵画よりも勝程素晴らしかった事から「勝画楼」と名付けたと伝えられています。
宝永7年(1710)には竹駒神社(宮城県岩沼市)の社殿を造営し、近年まで偉容を誇っていましたが、平成2年(1990)放火により焼失しています。享保3年(1718)には亀岡八幡神社の石鳥居(宮城県指定有形文化財)を寄進し鳥居の裏面には「享保三戊戌年四月朔日左近衛権中将藤原朝臣吉村謹書」が刻まれており仙台東照宮、大崎八幡宮と共に仙台三大石鳥居に数えられています。
吉村は社寺の保護も行い正徳5年(1715)には愛宕神社(宮城県仙台市)に社領30石が寄進、享保5年(1720) には綱村の菩提を弔う為に大年寺(宮城県仙台市)に梵鐘を寄進(現在は大満寺が所有)、亨保8年(1721)に平八幡神社(宮城県気仙沼市)に参拝し黄金を寄進、享保8年( 1723)に観音寺(宮城県気仙沼市)を巡視の際に訪れ観音堂を造営、享保9年(1724)に鳥屋神社(宮城県石巻市)に金百疋奉献、享保10年(1725)には白鳥神社(宮城県石巻市)に境内を整備、享保13年(1728)には一皇子宮(宮城県石巻市)に参拝しています。
大義山覚照寺(宮城県大和町)は宮床伊達家の菩提寺で、廟所は伊達吉村によって造営され寺号も吉村が改めたとしています。吉村が瑞巌寺(宮城県松島町)に参拝する際に利用した御仮屋は吉村によって「観瀾亭」と名付けられ御座の間の床の間には吉村筆「雨奇晴好」の額が掲げられています。又、瑞巌寺上段の間には享保19年(1734)吉村筆「円満」の額が掲げられています。伊達吉村は能を愛好し、能の伝書である「道成寺習之口伝書」と「関寺小町極秘習之伝」をまとめ上げ、自ら舞台に立って主役を演じたとされます。
吉村は歌人としても知られ、著名な歌人と交流し指導を受ける一方で歌書の収集を行い108点が残されています。宝永7年(1710)には仙台城の城内に茶室である残月亭を造営し、元々あった伊達政宗筆「残月亭」の額の破損を恐れ正徳4年(1714)に複製を作られています。吉村は画家としても有名で「自画像」、「六所玉河和歌御手鑑」、「源氏八景御手鑑」、「京極定家・後京極良経像」、「たかがり・すなどり図」、「竹梅図」 などの作品を残しています。
|