松島町: 瑞巌寺

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概要・歴史・観光・見所
瑞巌寺(松島町)概要: 松島青龍山瑞巌寺は宮城県宮城郡松島町松島字町内に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。瑞巌寺の創建は不詳ですが、室町時代初期に編纂された「天台記」によると平安時代の天長5年(828)に淳和天皇の詔勅により第3代天台座主慈覚大師円仁が延福寺として開山されたと伝えられています。当初は天台宗で延福寺と称し比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)と肩を並べる大寺院だったそうです。一時荒廃しましたが平泉(岩手県平泉町)を本拠とする奥州藤原氏が庇護し諸堂の造営や法華経10万部など奉納し文治2年(1186)には藤原頼平が広大な寺領を寄進しています(一説には栗原郡全域とされますが広大すぎ、藤原頼平も実在しているのかは不詳)。

文治5年(1189)頃になると藤原氏を見限り源氏方に与したと見られ、藤原氏に囲われた源義経を追討する源頼朝の為に義経を呪詛したと伝えられています。鎌倉時代に入ると北条政子の庇護を得て、源頼朝の菩提を弔わせ住職である見仏上人に仏舎利を寄進しています。その後衰退しましたが、鎌倉時代中期(13世紀中頃)に鎌倉幕府第5代執権北条時頼が法身性西和尚を擁して中興開山し宗派を臨済宗建長寺派の寺院に改められ寺号も円福寺に改称しています。円福寺となってからの2世は建長寺(神奈川県鎌倉市)を開いた蘭渓道隆で、引き続き幕府の庇護を得て関東御祈祷所に選定され、室町時代には五山十刹制度の諸山にも列する程にもなりました。

瑞巌寺は室町幕府の衰微や兵火により室町時代後期には衰退が顕著となりましたが瑞巌寺天正6年(1573)に実堂和尚が臨済宗妙心寺派の寺院として再興、さらに領主となった伊達政宗が篤く帰依した為、江戸時代初期に堂宇の再建が行われ現在見られる奥羽屈指の大寺院の名に恥じない壮麗な堂宇群の基礎が築かれ、寺号も「松島青龍山瑞巌円福禅寺」に改められました。瑞巌寺の建設には諸国から130人以上の名工を集め約5年間という期間をかけ桃山建築の粋を尽くした建物とされました。一方、瑞巌寺の境内全域は砦として機能するように計画され、仙台城(宮城県仙台市)が落とされた後は瑞巌寺に立て籠もり指揮する手筈だったそうです。瑞巌寺は末寺110余の末寺を擁するなど寺運が隆盛し、江戸時代中期には俳聖松尾芭蕉も参拝に訪れています。

江戸時代を通して伊達家の庇護により大きく繁栄しましたが、明治時代に入り仙台藩が廃藩になると庇護者を失い衰微し、多くの建物も失われました。現在の瑞巌寺本堂は慶長14年(1609)に伊達政宗(初代仙台藩の藩主、仙台城の城主)が造営したもので入母屋、本瓦葺、平入、桁行13間、梁間8間、書院造、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、木部は素木板張り、内部は仏間、室中の間(孔雀間)、上段の間、上々段の間、控の間(羅漢間)、墨絵間、文王間、鷹間、菊間、松間の10室、当時の伊達家の権勢が窺える壮麗で豪華絢爛な意匠が随所に施されています。現在も瑞巌寺の境内には当時の建物が残り本堂と庫裏は国宝、御成門、太鼓塀、中門は国重要文化財、総門は宮城県指定重要文化財にそれぞれ指定されています。奥州三十三観音霊場第6番札所。三陸三十三観音霊場番外札所。山号:松島青龍山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:聖観音菩薩。

【 瑞巌寺:菩提者(伊達政宗) 】-伊達政宗は永禄10年(1567)、伊達家16代当主伊達輝宗の嫡男として米沢城(山形県米沢市)の城内で生まれました。天正7年(1579)に三春城(福島県三春町)の城主田村清顕の娘である愛姫を正室に迎え、天正12年(1584)に伊達家第17代当主に就任しています。天正13年(1585)、伊達輝宗は二本松城(福島県二本松市)の城主畠山義継によって拉致され、それに激怒した伊達政宗は父親毎鉄砲で惨殺しています。政宗は初七日法要後、二本松城に侵攻、一方、畠山氏は同盟者の常陸(現在の茨城県)の佐竹氏に救援を要請し「人取橋の戦い」が発生しました。この戦いでは佐竹氏が圧勝し掃討戦が行われるはずでしたが、何故か自領に引き上げた為、九死に一生を得ました。

天正15年(1587)に豊臣秀吉による惣無事令が発令されましたが、その後も伊達政宗は版図の拡大を目指し戦争をし続け、特に天正17年(1589)には南奥羽に巨大な版図を築いていた芦名氏を摺上原の戦いで破り、当時の当主芦名義広は実家のある常陸に撤退しました。これにより伊達政宗は現在の福島県、宮城県、岩手県の一部合計120万石余りを手に入れ本拠を米沢城から芦名氏の本拠だった会津黒川城(福島県会津若松市)に遷し、奥羽統一を目指そうとしました。しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに対し小田原城(神奈川県小田原市)の開城前とは言え、大幅に遅参した事により不信感を与え、惣無事令違反の為に旧芦名領は没収となり、72万石で本拠を再び米沢城に戻しました。

さらに、伊達家に服従していた大崎氏、葛西氏が小田原参陣出来ず奥州仕置の際に改易となり、その遺臣が不服として一揆を発生した事に責任を取らされ、58万石で岩出山城(宮城県大崎市)に移封となりました。その後は豊臣秀吉に従い朝鮮出兵にも従軍しましたが、慶長3年(1598)に秀吉が死去するとすぐさま徳川家に転じ、秀吉が禁じていた大名同士の婚姻を、事もあろう徳川家と結んでいます。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは東軍に与し、上杉景勝と戦う事で西軍を牽制しましたが、概ね敗戦が多く目立った活躍は見られませんでした。関ケ原の戦いの前には徳川家康から100万石安堵の確約をしていたものの、上記のような戦いぶりに結局僅かな加増のみとなっています。

戦後は新たに仙台城を築き、仙台藩を立藩し領内整備に尽力し特に外交政策には力を入れ家臣である支倉常長を慶長遣欧使節としてローマなどの海外に派遣しています。領内では瑞巌寺(宮城県松島町:本堂と庫裏が国宝)や五大堂(国指定重要文化財)、陸奥国分寺(宮城県仙台市若林区木下:薬師堂が国指定重要文化財)の再興や大崎八幡宮(宮城県仙台市青葉区八幡:本殿・石の間・拝殿は国宝)の造営などが行われています。寛永13年(1636)に死去、享年70歳。菩提寺は現在の松島町にある瑞巌寺で、菩提は仙台城の城下町の経ヶ峰に造営された瑞鳳殿に埋葬されました。瑞巌寺には政宗の位牌が安置されています。

瑞巌寺の文化財
・ 本堂-慶長14年-木造平屋建、入母屋、本瓦葺、書院造-国宝
・ 庫裏及び廊下-慶長14年-木造平屋建、切妻、本瓦葺-国宝
・ 御成門(附太鼓塀2棟)-江戸-入母屋、本瓦葺、薬医門-国指定重要文化財
・ 中門(附太鼓塀2棟)-慶長14年-切妻、こけら葺、四脚門-国指定重要文化財
・ 五大堂-慶長9年-宝形造、本瓦葺、方三間、1間向拝付-国指定重要文化財
・ 本堂障壁画161面-元和6年から8年-仙台藩お抱え絵師作-国指定重要文化財
・ 奥州御島頼賢碑-徳治2年(1307)-高さ335cm-国指定重要文化財
・ 木造五大明王像-平安時代-ケヤキ材、一木造、像高64〜92p-国重文
・総門 -慶長年間-切妻、本瓦葺き、薬医門-宮城県指定文化財
・ 仏涅槃図-室町中期-絹本著色、縦227cm、横183cm-宮城県指定文化財
・ 釈迦説法図-室町-絹本著色、縦159.8cm、横113cm-宮城県指定文化財
・ 脇差-大和守安定、弟子安次、安倫の合作刀-宮城県指定文化財
・ 梵鐘-明暦3年-青銅製、総長135.7cm、径66.lcm、龍頭高27cm-宮城県指定
・ 銅鐘-慶長13年-青銅製、総長168cm、径99.9cm、龍頭高27.4cm-宮城県指定
・ 木造伊達政宗倚像-承応元年-像高124cm、台座高48.5cm宮城県指定文化財
・ 臥竜梅-慶長14年植樹の後継-紅梅・白梅-宮城県指定天然記念物
・ 松島町指定文化財多数所有

瑞巌寺:写真

瑞巌寺
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