大崎市: 岩出山城(要害)

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概要・歴史・観光・見所
岩出山城(大崎市)概要: 岩出山城は中世、大崎一帯を支配した大崎氏(名生城の城主、奥州探題)の家臣氏家弾正が室町時代の応永年間(1394〜1428年)に築城したと伝えられています(当時は岩手沢城)。氏家氏は、藤原北家宇都宮氏の一族出身で宇都宮朝綱の子供である宇都宮公頼が下野国芳賀郡氏家郷に配された後に地名に因み「氏家」に改姓したとされます。氏家経朝の甥である氏家重定が鎌倉時代末期の正安年間(1299〜1301年)に越中(現在の富山県)に遷され、さらに建武4年(1337)に斯波兼頼が奥州探題に就任した際、兼頼の執事として奥州に入りました(文和2年:1353年に斯波家兼に従い奥州に入った説など諸説有)。貞和5年(1349)に初代将軍足利尊氏の命により大崎監司に就任し、岩手沢城(現在の岩出山城)の城主となり、その後裔は大崎氏の家臣となっています。

最盛期の大崎氏は志田郡・玉造郡・加美郡・遠田郡・栗原郡を支配し、隣接すると伊達家や最上家などの大名と対等以上の勢力があり氏家氏もその重臣として重きを成していましたが、戦国時代になると大崎氏の領内で内部分裂が顕著となり天文3年(1534)には氏家直益が主家である大崎氏に対して反乱を試み岩出山城も戦場となりました。直益は岩出山城に立て籠もり2カ月間にも渡り籠城しましたが落城し降伏しています。大崎氏はその後も内乱含みの体制が続き、天正14年(1586)には周辺の大名を巻き込んだ大崎合戦が発生し、当時の岩出山城の城主氏家弾正吉継は片倉景綱を通じて伊達政宗に援軍を要請しています。大崎合戦では大崎氏が勝利したものの、依然として体制が不安定だった事から天正18年(1590)の小田原の役では参陣する事が出来ず、豊臣秀吉による奥州仕置により改易となり、氏家氏は伊達家に仕えるようにります。

一方、伊達政宗も直前に手に入れた南奥羽一帯が惣無事令違反として取り上げられ、会津若松城(福島県会津若松市)から旧本城だった米沢城(山形県米沢市)に移り、さらに、大崎氏の遺臣が奥州仕置を不服として一揆を発生させた事で、政宗はその責任から天正19年(1591)に岩出山城に移封となり12年間居城とします。その時、秀吉の命令で徳川家康の家臣、榊原康政が岩出山城の縄張りをし、東西約800m、南北700mの大規模な城郭を築城(改築)し岩出沢から岩出山に改名しています。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで形式上は東軍に与した伊達政宗は、領内のさらなる発展を願い仙台城を築城、慶長8年(1603)に仙台城が完成し居城を移した後は四男の宗泰が15000石で岩出山城の城主となり代々岩出山伊達家が世襲し明治維新を向かえています。ただし、元和元年(1615)に一国一城令が発令されると形式上は城郭ではなくなり、岩出山要害と名称を変え存続しています。

明治元年(1868)、岩出山伊達氏は北海道に移住し岩出山城、領地とも仙台藩に返上、岩出山城も廃城となり施設の多くが民間に払い下げとなりましたが、明治9年(1876)の火災により焼失しています。現在の岩出山城は城山公園と学校などに利用されていますが、本丸跡には土塁や内門跡などが残り、深い堀切などは、当時の要害の様子を伝えてくれます。又、岩出山城の麓には岩出山要害の学問所である有備館の御改所(主屋)、付属舎、庭園が残され、昭和8年(1933)に名称「旧有備館および庭園」として国指定史跡及び名勝に指定されています。

岩出山城(要害):写真

岩出山城
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