村田城(所)概要: 村田城は中世から築かれた平山城で、 標高54mの丘陵を中心に水掘で囲み、荒川を天然の外掘りとしていたようで、現在、本丸は城趾公園として整備され、二の丸は小学校の敷地となっています。全体の大きさは東西300m、南北210mあり、本丸は東西130m、南北80mあり、土塁や空掘りなどの遺構が残っています。慶長20年(1615)に幕府によって発令された一国一城令後は、仙台藩(藩庁:仙台城)の行政区の一つ「所」扱いとなり、本丸には掘立柱程度の建物のみとなり、領主の居館や政庁は二の丸に置かれていました。
明治初頭に廃城となり、城郭は破棄されましたが、大手門は願勝寺に払い下げられ、大正11年(1922)に寺と共に移設されています。村田城の城跡は昭和44年(1969)に村田町指定史跡に指定されています。
村田城の歴史は室町時代の嘉吉年間(1441〜1444年) に下野国の豪族として知られた小山氏の一族と思われる小山九郎業朝が当地に落ち延び居館として設けたのが始まりとされ、地名に因み「村田」姓に改め、代々当地を治めました。その後、村田氏は台頭した伊達家に従うようになり、永禄8年(1565)には伊達家14代当主伊達稙宗の子供である宗殖(万好斎)を村田近重の養子として迎え3万石を領するようになります。天正19年(1591)には新たに伊達政宗の本城となった岩出山城(宮城県大崎市岩出山)に米沢城(山形県米沢市)から向かう途中、側室である猫御前(新造の方:飯坂城主・飯坂宗康の2女)が産気づき村田城に滞在している最中に庶長子となる兵五郎秀宗(伊達秀宗:伊予宇和島藩の初代藩主)が生まれています。
宗殖が隠居し出家、万好斎と名乗るようになると村田領は仙台藩が直接管理し、村田城には伊達家家臣である後藤三郎右衛門が城代として赴任しました。慶長18年(1613)に政宗の七男伊達宗高が城主となり、3万石を領しましたが19歳で天然痘により病死、以後は奥山氏や、田村氏、芝多氏、片平氏などの重臣達が城主を歴任し明治維新を迎えています。
城下町に境内を構える龍島院には宗高の廟所(村田町指定史跡)が建立され、武家屋敷である旧田山家住宅(村田町指定文化財)が現存しています。
村田城:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 東北の名城を歩く[南東北編]-株式会社吉川弘文館
・ 現地案内板-村田町教育委員会
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