千石城(大崎市松山)概要: 千石城は遠藤盛遠が築城したと伝えられている。 遠藤氏は応永8年(1401)に関東公方だった足利満兼から志田、玉造、加美の3郡の奉行に任ぜられ、以後200年近く支配しています。戦国時代になると松山は大崎氏、葛西氏、伊達氏の領内と接していた為、戦略的にも重要視され、遠藤氏は伊達氏に組するようになります。その後も伊達氏の信用をかい一族に列せられ引き続き重要地である松山を預かりました。大崎氏と伊達氏の間の確執も激化し、千石城はたびたび前進基地として利用され、「大崎合戦」時には一万数千人の将兵が集結したと言われています。
又、大崎一揆鎮圧にも政宗が入城し拠点としました。奥州仕置きの後、政宗は米沢城(山形県米沢市)から岩出山へ本城を移し、それに伴い要地である松山は重臣の1人石川氏が千石城を預かります。
慶長8年(1603)に茂庭氏が入ると「一国一城令」などもあり、千石城の防衛的要素が重要視されなくなり、当初あった本丸、二の丸、三の丸と3つの郭の内、三の丸だけが政庁として使われるようになり、明暦3年(1657)に向かい側の丘の上に上野館を築き、そちらの方で政務をとり行い、三の丸には留守居として家臣一名を置くだけになりました。
現在、千石城の跡地は御本丸公園として整備されて、弁慶坂と呼ばれる堀切跡や、郭の形状などの遺構が残されています。
千石城跡:上空画像
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典4[宮城県]-株式会社人文社
・ 東北の名城を歩く[南東北編]-株式会社吉川弘文館
・ 現地案内板-大崎市教育委員会
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