登米市: 佐沼城(鹿ヶ城)

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概要・歴史・観光・見所

佐沼城(鹿ヶ城)概要: 佐沼城の築城当初は記録が不明で良く分かりませんが、奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の家臣である照井高直によって築城されたとの説があります。鎌倉時代に入ると有力御家人で奥州総奉行に就任した葛西氏の支配下に入り、特に葛西氏が本城を石巻城(宮城県石巻市)から寺池城(宮城県登米市登米町)に遷すと、佐沼城も重要視されたと思われます。

戦国時代に入ると、佐沼城は名生城(宮城県大崎市)の城主大崎氏領との最前線だったようで、天文年間(1532〜1555年)は大崎氏家臣の石川氏が城主となっています。

その後、再び葛西氏の支配下に入りましたが、天正18年(1590)大崎氏、葛西氏の両氏は小田原へ参陣しなかった事から豊臣秀吉の奥州仕置きによって改易させられます。

その後支配した木村吉清・木村清久父子は5千石から30万石へ大幅加増され古川城に入城したものの、木村氏は元々が小身だった事から、領内経営に不備があり大崎氏、葛西氏の残党などが絡み合い大規模な一揆が発生、吉清・清久父子は佐沼城に入り籠城します。

一揆の鎮圧には蒲生氏郷、伊達政宗等が命じられ、特に佐沼城の木村父子救出には伊達政宗が指揮を行い成功しています。しかし、政宗は一揆を扇動したとの嫌疑をかけられ、京都に滞在していた豊臣秀吉に申し開きを行う事になり、その隙に佐沼城は一揆勢に占拠され一大拠点とされました。政宗の嫌疑が晴れると再び転進し、約2千5名の一揆勢が立て籠もる佐沼城に侵攻し落城、掃討しています。

政宗は一連の不手際により、長年の本拠地だった米沢城(山形県米沢市)から岩出山城(宮城県大崎市岩出山)に減封となり、佐沼城は徳川家康により修復された後、伊達家の家臣である湯目民部景康が配されました。

その後、景康は「津田」姓に改め、7代に渡り佐沼城の城主を歴任しました。その間、慶長20年(1615)に発令された一国一城令により、仙台藩(藩庁:仙台城)は佐沼城を城郭として認めず、「要害」や「要害屋敷」と呼ばれる存在となりました。宝暦6年(1756)から亘理倫篤が5千石で入り以降は亘理氏が明治維新まで支配し、明治4年(1871)の廃藩置県により仙台藩が廃藩になると佐沼要害も廃城となっています。

佐沼城は平山城で高さは然程ありませんが迫川、酉の堂沼、鯛沼などが外掘とし本丸を囲むように深い内堀が配されています。現在も内堀の一部がコンクリートによって固められていますが残り、本丸の土塁などの遺構を見る事が出来ます。佐沼城の城跡(本丸)は貴重な事から昭和50年(1975)8月3日に登米市指定史跡に指定され現在は鹿ヶ城公園として整備されています。

佐沼城跡(鹿ヶ城公園):上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典4[宮城県]-株式会社人文社
・ 日本の名城・古城辞典-株式会社TBSブリタニカ
・ 東北の名城を歩く[南東北編]-株式会社吉川弘文館
・ 現地案内板-迫町教育委員会


佐沼城跡(鹿ヶ城公園):ストリートビュー

佐沼城(鹿ヶ城):写真

佐沼城
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