登米市: 興福寺

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概要・歴史・観光・見所
興福寺(登米市)概要: 大嶽山興福寺は宮城県登米市南方町本郷大嶽に境内を構える天台宗の寺院です。案内板によると「 興福寺は大同3年坂上田村麻呂の創建開山以来修験の道場としてさかえたが戦国の兵火に焼かれて中絶したものを元和12年永盈が中興し出羽の羽黒山に属した神仏が分離後遠田郡箟峯寺末となる。宝永5年5月8日観音堂焼失さらに年月を経て大破、明治15年末改築再建が計画された明治21年4月現在の観音堂(本堂)の竣工後持仏堂として現在に至る。六角堂は観音堂の竣工に先立ち造替して本尊の仮遷座にあてた道場であり仮本堂であった。住職獄内啓謙同恭諄大工棟梁鈴木長作、脇棟梁内館倉之助同今野忠三郎により明治17年4月に創建その後屋根の葺替、土台改修、外部腰を人造石洗出し仕上げに改めて現在に至る。・・・(後略) 南方町教育委員会 」とあります。

興福寺の創建は不詳ですが、伝承によると平安時代初期の大同2年(807)、坂上田村麻呂(鎮守府将軍、征夷大将軍)が当地を支配した大武丸を討ち取った際、遺体を7分割にして埋葬し、塚の上に堂宇を設けたのが始まりとされ、清水寺(京都府京都市東山区清水)の延鎮法師を招いて開山したと伝えられています。中世に入ると、領主である葛西氏によって庇護され、特に葛西清重の一族である葛西近江守の弟重高が出家し、了全と名乗り興福寺を再興しています。天正18年(1590)の小田原の役に不参加だった葛西氏は豊臣秀吉による奥州仕置きにより改易となり、それに不服だった遺臣や農民達は天正19年(1591)に葛西大崎一揆を起こし、葛西氏と関係が深かった興福寺も一揆に参加し、多くの堂宇、寺宝、記録などがその兵火により焼失しています。

江戸時代初期の元和5年(1619)、山学坊永盈により中興され、佐沼城(要害)の城主である津田氏も篤く信仰し庇護しています。仙台藩(藩庁:仙台城)3代藩主伊達綱宗が重篤になると、当時の領主津田春康は興福寺観音堂にて病気平癒の祈祷を行い、見事念願成就すると、以後、伊達家の祈願所として庇護されました。明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て、明治5年(1872)に箆峰寺の末寺となり天台宗に改宗しています。

興福寺六角堂は和風建築と洋館を掛け合わせた形式をもっていてベランダや窓の仕様など洋風建築の要素を取り入れた貴重なもので、昭和51年(1976)に南方町(登米市)指定文化財に指定されています。興福寺観音堂は明治21年(1888)に再建されたもので、木造平屋建て、宝形造、銅板葺き、桁行5間、張間5間、正面3間軒唐破風向拝付き、外壁には中国故事を表現し、欄間には十二支の彫刻、平成2年(1990)に登米市指定文化財に指定されています。奥州三十三観音霊場第10番札所(札所本尊:十一面観音菩薩・御詠歌:後の世も 今日の御法の 大嶽の 生まれぬよきの 契り深しな)。山号:大嶽山。宗派:天台宗。本尊:十一面観世音菩薩。

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興福寺
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