津島神社(登米市)概要: 津島神社は宮城県登米市迫町佐沼字西佐沼に鎮座している神社です。津島神社境内にある当社由緒縁起書立によると「文治5年(1189)年源頼朝が平泉藤原氏を征討し、戦勝の御礼参りの後、葛西壱岐守に命じて当社を北方村日向に勧請したと伝えられている。400年後の天正19年(1591)年豊臣秀吉の日本統一に、最期の抵抗をした葛西、大崎両氏は士民連合して大一揆を起こし佐沼城に籠城した。秀吉の命令で伊達政宗は包囲はしたが、沼川深田の佐沼水域は難攻不落万策尽きた政宗が当社に祈願したところ忽然、白鷺の群が飛来して沼の浅瀬に降り立った。(今の鷺橋)遂に一揆軍の運が尽きて落城し、津田氏が北方村から現在地に遷座して、佐沼郷の総鎮守とした。・・・(後略)」とあります。
津島神社の創建は不詳ですが、奈良時代の天平2年(730)に勧請されたとも云われています。古文書によると奥州藤原氏3代当主藤原秀衡が奉納した経文金光経全巻を所有していた事が記されている為、これが事実とすれば平安時代には既に鎮座していた事が窺えます。
文治5年(1189)の奥州合戦の折、当地まで進軍した源頼朝は津島神社(愛知県津島市神明町)に戦勝祈願を行い、見事念願成就すると改めて分霊が勧請され、奉斎される事になり、家臣である葛西伊予守は社領30貫文を寄進し、代々崇敬しました。
天正18年(1590)の小田原の役に寺池城(宮城県登米市登米町)の城主葛西氏と名生城(宮城県大崎市)の城主大崎氏は参陣しなかった事から改易となり、その後に領主となった木村氏の悪政が重なり葛西大崎一揆が発生、一揆鎮圧を命じられた伊達政宗は一揆勢が立て籠もった佐沼城を攻めあぐね津島神社に戦勝祈願を行ったところ見事に城を落とす事が出来たそうです。
当初は栗原郡北方村(現在の登米市迫町北方字大形山)に鎮座していましたが、慶長19年(1614)に当時の佐沼城の城主津田民部景康が佐沼城の北方鎮守の為に現在地に遷座し、さらに佐沼郷の総鎮守としました。宝暦7年(1757)に津田氏が移封となり、亘理氏が入封すると引き続き津島神社を庇護しています。
古くから神仏習合し、祇園牛頭天王などと称していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、明治3年(1870)に現在の社号である「津島神社」に改め、明治5年(1872)に郷社(後に村社、大正10年に復権)に列し明治40年(1907)に神饌幣帛料供進神社に指定されています。
現在の津島神社社殿は明治45年(1912)の佐沼大火で全焼した後の大正12年(1923)に再建されたもので、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行3間、張間2間、正面軒唐破風3間向拝付き、外壁は真壁造板張り。本殿は一間社流造、銅板葺き。境内には「縁結びの木」や「結舎」などがあります。祭神:素戔嗚尊、倉稲魂命、猿田彦命、木花咲耶姫命。
津島神社:上空画像
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