大崎市古川: 名生城

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概要・歴史・観光・見所
名生城(大崎市古川)概要: 名生城は宮城県大崎市古川大崎字城内に位置する中世の平城です。案内板によると「名生城は奥州探題として広く東北地方を支配した大崎氏の本拠地となったところで、広大な段丘面を利用して築城され、規模、構想の雄大さは当時の大崎氏の権勢の大きさを示しています。しかし大崎氏は十二代義隆を最期に滅亡。その後、伊達政宗の岩出山城築城に際して豊臣秀吉に派遣された徳川家康がこの城に立ち寄ったことを最期に文献にもあらわれなくなったことから間もなく廃城になったものと考えられます。現在は農地に変わっていますが、近年の発掘調査で大館地区で大規模な溝を発見し、内館地区においては多量の焼米が出土していることからこの地区には蔵があったと考えられます。また現在も土塁や水濠をはじめ多くの空掘が残っており、複雑な構造を持つ大規模な中世城館であったものと想像されます。 古川市教育委員会」とあります。

名生城は古代から当地には名生官衙(国指定史跡)と呼ばれる中央の出先機関が設けられ当地域の行政の中心だった事から、その名生官衙が領主の居館、その後中世の平城に発展した可能性もあります。名生城は南北朝時代の観応2年(1351)、当時の領主大崎家兼によって築かれると、歴代大崎氏の居城として利用され、大崎氏の発展と共に整備、拡張が行われたと思われます。家兼は奥州探題に任ぜられていた事から形式的は当地は奥州の行政の中心となり最盛期には玉造郡・加美郡・志田郡・遠田郡・栗原郡と黒川郡の一部まで勢力を伸ばし大きな影響力を行使しました。天文3年(1534)に大崎家中で内乱が起ると、伊達家の介入を許した為、次第に伊達家から侵攻され、天正16年(1588)の「大崎合戦」では当時の城主大崎義隆は最上義光の支援を受け勝利を収めたものの、伊達家と最上家が和睦した事を受け、伊達家に従属しています。

天正18年(1590)、当時の城主大崎義隆は豊臣秀吉による小田原の陣に対して参陣出来ず、小田原城(神奈川県小田原市)が落城し北条氏が滅びると、その後に行われた奥州仕置きにより改易となります。新たに領主となった豊臣家家臣木村吉清は子供である清久を名生城に配し当地を支配しましたが、圧政があったとして天正19年(1591)に旧大崎家家臣が一斉蜂起して名生城を急襲し占拠、その知らせ聞いた奥州仕置き軍は豊臣家家臣、蒲生氏郷を派遣して再び名生城を取り戻しました。しかし、伊達政宗が一揆の首謀者との知らせが入り、そのまま籠城を継続し、政宗の嫌疑が晴れるまで続けられました。一揆の終結後、木村父子は改易、政宗も不手際(事実上一揆の首謀者として露呈)の為、本城だった米沢城(山形県米沢市)を追われ、72万石から58万石に減封され岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に遷されて、名生城も廃城になったと思われます。

名生城は中世の平城で本丸にあたる大館を中心に内館、小館、北館、二ノ構、三ノ構、軍議評定丸と呼ばれる主要な郭が7つあり、それぞれ水堀や空堀、土塁などで囲われていました。現在でも僅かに土塁や堀跡などが残され往時の名残が感じられます。

名生城:写真

名生城
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