古川城(大崎市)概要: 古川城は中世、大崎一帯を支配した 大崎氏(名生城の城主、奥州探題)一族が築城したと伝えられ、家臣である古川氏の居城でした。伝承によると室町時代に大崎家7代当主大崎教兼の6男が当地に配された際に築かれ、後裔は地名に因み古川氏を称したとされます。天文3年(1534)には大崎家内部に内乱が発生し、当主大崎義直に謀反を起した新井田頼遠に当時の古川城の城主古川持熈も同調、天文5年(1536)には義直が伊達稙宗に救援を要請した為、伊達軍が古川城まで侵攻し、城は落城、持熈も自刃して果てています。
戦国時代末期の天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原の陣へ大崎氏は参陣しなかった為、「奥州仕置き」により改易され、豊臣家の家臣である木村吉清が古川城主となります。しかし、悪政を行った事で、俗に言う「葛西、大崎一揆」という大規模な一揆が発生、木村氏はその責任から失脚し伊達領となります。
伊達政宗は小田原の陣直前には南奥州を制して大大名となりましたが、小田原への遅参と、惣無事令違反により旧芦名領が認められず、「葛西、大崎一揆」の不手際(一説には一揆を画策したとも?)により居城だった米沢城(山形県米沢市)から岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に移封となりました。
当時、古川の地は交通の要地だった事から重臣である鈴木氏を配しましたが、三代目の鈴木宗良が正保2年(1645)に桃生郡深谷に移った為、廃城となり以後は藩奉行所支配となり、城跡には御蔵などが建てられました。
古川城の外郭は縦300間、横700間あり、本丸、二ノ丸、三ノ丸、馬場先、大手先などの郭があり規模からしても重要視された城だった事だとわかります。昭和初期までは、掘りや土塁などが残っていたようですが、現在はその遺構を見つけるには難しいようです。小学校周辺が本丸跡とされ、周囲の敷地より若干高台にあるのが分かります。古川城の搦手ノ門は、付近にある端川寺に移築され山門となっています。
古川城跡:上空画像
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典4[宮城県]-株式会社人文社
・ 現地案内板-古川市観光協会
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