大崎市古川(歴史)概要: 大崎市古川の歴史は古く、多賀城よりも以前に名生館官衙が造営され、玉造郡の政治的、軍事的中心をなしていました。7世紀末期には大崎周辺が朝廷の支配下にあった示唆し、伏見廃寺跡などから多くの文化や宗教なども持ち込まれていたと思われます。
古川の北部にも奈良時代から平安時代に掛けての官衙跡である宮沢遺跡(古文書等に記録がない為、正式名不詳)があり、東北では最大級の官衙遺跡と言われています。
延暦23年には坂上田村麻呂軍が東夷東征の戦勝祈願の為、京都祗園神社を勧請し祇園社を建立し、藤原秀郷や伊達政宗など代々の古川の支配者が崇敬しています。
大崎市周辺の中世は、奥州探題であった大崎氏が支配し、名生館官衙跡地に名生城を築き戦国末期まで支配が続きます。
しかし、豊臣秀吉の小田原の陣に参陣しなかった為、奥州仕置きにより改易され、大崎氏は秀吉から派遣され新領主となった木村吉清(30万石)に一揆を煽動し(伊達政宗が裏で暗躍した説が有力)世に言う「大崎・葛西大一揆」が勃発します。秀吉は伊達政宗、徳川家康、蒲生氏郷らを派遣し一揆を制圧させ、その後政宗は米沢(山形県米沢市)から岩出山に移封させられます。
古川は近世に入ると伊達領となり、交通の要所から古川城に重臣の鈴木氏を配します。鈴木氏は三代目の宗良が桃生郡深谷に移り、一国一城令などあった為、廃城となり以後は藩直営の奉行所支配となります。
古川は奥州街道だけでなく秋田へ続く仙北街道や石巻への道が交差していた為、多くの町屋が建ち並び、参勤交代制度が確立すると宿場町として整備されます。
現在の古川は町屋など古い建物は少なくなりましたが緒絶の橋の袂にある旧橋平酒造店は当時の雰囲気をよく残しています。
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