多賀城市(歴史)概要: 多賀城市の歴史は古く律令政治が進む中8世紀の初め、陸奥国が建設され国府が置かれた事に始まります。多賀城は神亀元年(724)に築城したとも言われ政治だけでなく軍事的要素の強い鎮守府や国分寺などの宗教や文化の中心的役割を果していました。
現在でも多賀城市周辺には当時の文化を思わせる、多賀城廃寺跡や延喜式内社である多賀神社や陸奥総社宮、新古今和歌集で歌枕とされた浮島(浮島神社)などが残っています。
多賀城周辺は当初、蝦夷の勢力圏に接していた事もあり伊治呰麻呂の乱など度々戦火にまみれる事もあったようですが、次第に朝廷の支配地域が広がるとその役割が胆沢城(岩手県奥州市水沢)に移ると軍事的機能が次第に薄れてきます。
しかし、陸奥国中心としての象徴的な存在は変わらず、平安時代後期に行われた前九年の合戦や後三年の合戦では鎮守府将軍となった源頼家、義家父子は多賀城から軍を派遣しています。
鎌倉時代に入り朝廷の力が急速に衰えると国府としての機能は低下し極めて象徴的な存在となり鎌倉御家人も伊沢家景は陸奥国留守職という役柄で、南北朝時代にも国府をめぐり攻防戦が繰り広げられています。その後の奥州探題となった大崎氏は名生城へ居城を移すと多賀城市周辺は国府としての機能を完全に失いました。
戦国末期の多賀城市周辺は留守氏や国分氏が統治しますが大きな勢力には成長出来ず次第に伊達家に飲み込まれていきます。江戸時代に入り、寛文から延宝年間に歌枕にもなった「壺碑」が土中から発見されます。松尾芭蕉もここを訪れ「壺碑」を奥の細道で紹介しています。
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