栗原市金成(歴史)概要: 旧金成町の歴史は古く金成町東側にある白山神社には坂上田村麻呂が東夷東征の際、この地で陣を構え戦勝祈願の後に勧請したと言い伝えられています。その後、文治5年には源頼朝が「奥州合戦(藤原泰衡追討)」の際、戦勝を祈願(この合戦の勝利し、白山神社に「那須与一の扇の的射」を奉納した事が小迫の延年行事へと受け継がれています。)しています。
時代が遡りますが、平安時代後期には旧金成町一帯は奥州藤原氏の支配下に入り平泉の入口として重要視しされていました。藤原氏が崇敬していたという金田八幡神社は前九年合戦に源頼義、義家が陣を張った金田城跡といわれ、藤原氏の旧苗字の清原氏が代々の宮司を勤めていたと言います。
藤原清衡は社領を増加させ運慶の作の阿弥陀正像を寄進したとも伝わり、義経と書かれた「匕首」や「義経公の位牌」なども安置されています。又、金田八幡神社には金売橘次の伝説もあり、金と平泉を繋ぐ糸口とも言えます。
近世に入ると旧金成町では奥州街道が整備され沢辺、金成、有壁が宿場町と整備され、現在でも有壁には本陣に利用された建物が残っています。その中でも金成は周辺地域の中心的立場を取り、金成代官所が置かれ三迫地方の行政司法、警察等の管理を勤めていました。
明治維新後もその立場は変わらず、金成小学校(宮城県指定有形文化財)や金成ハリストス正教会(旧金成町指定有形文化財)などの洋風建築もいち早く建設されました。
現在の金成町は上記の史跡や建物に加え、日枝神社(旧金成町指定有形文化財)など豊富にありますが、古い町並みは有壁の一部を除きほとんど見られなくなってしまいました。栗原市へ併合する事は行財政で安定しますが、金成町の独自性をどう発展させるかが今後の課題かもしれません。
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