大崎市松山(歴史)概要: 大崎市松山にある羽黒神社は後三年合戦の折、源義家の家臣である鎌倉権五郎景政が戦勝祈願をしたという歴史のある神社です。
中世になると遠藤氏が志田、玉造、加美の3郡の奉行に任ぜられ、松山周辺を200年近く支配しています。戦国時代に入ると遠藤氏は伊達氏に組し、大崎氏、葛西氏などの最前線を任せられる事になります。
松山の地は交通の要所で軍事的の拠点として重要視され、戦国末期には伊達家の重臣である石川氏が城主となり、当時伊達家の本城だった岩出山の近辺ある事でさらに重要性が増しました。
慶長8年(1603)に石川氏に代わって茂庭氏が1万5千石で千石城入ると、本格的に城下町の整備を行い、羽黒神社の社殿の再建を始め、茂庭氏縁の石雲寺や桃源院などの寺院を呼び寄せました。
一国一城令が発せられると千石城は所となり、城の規模を縮小し、現在の松山高校付近に上野館を築き政務などを行いました。城下町では特に醸造業が発展し、現在では4つの蔵元が合併し 「 一の蔵酒造 」として継続し、町営施設 「 酒ミュージアム 」 で当時の醸造業の様子を資料展示し、向いにある角田醤油店では明治時代に造られた座敷蔵が残っており、旧商人町の他の町屋と共に松山の町並みに影響を与えています。
又、町の一角には県指定無形文化財に指定されている九代目刀匠法華三郎信次日本刀鍛錬所があります。元々は奥州藤原氏が武器調達の為、平泉近郊に住まわせて刀工集団でしたが、藤原氏が滅亡すると全国に散らばったとされ、松山の法華氏の祖も奥州刀鍛冶の刀工集団の一握を担っていたと考えられます。
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