上野館(大崎市松山)概要: 上野館は案内板によると「近世仙台藩の上級武士茂庭氏の屋敷跡である。寛永8(1631)年茂庭周防良元の下屋敷として築かれ、慶安4(1651)年73才で隠居し、千石城三ノ丸から移った。その後、子周防定元は明暦3(1657)年作事の完成を待って正式に居館として移住し、以後幕末までの約200年間この地が松山統治の中心となった。 松山町教育委員会」とあります。
茂庭氏は陸奥国伊達郡茂庭出身の土豪で、少なくとも南北朝時代には既に伊達家に従い戦国時代には重臣として重用されるようになり、慶長8年(1603)に志田郡松山城に配されました。
正保元年(1644)には1万石(最終石高1万3千石)となり諸侯並の石高となりましたが、慶長20年(1615)に一国一城令が発令されると、千石城(松山城)は仙台藩(藩庁:仙台城)の行政区としては「館」に属した為、城郭としての機能を破棄し三ノ丸の居館部のみが残されました。
しかし、千石城は元々山城として縄張りされていた事から、行政施設としては手狭となり上野館に遷る事になったと思われます。上野館は単郭だったものの、比高40mと1段高い台地にあり、周囲を土塁で囲い大手口は虎口にするなど、一応の防御施設としても機能していたようです。明治維新後は廃され、現在敷地の多くが宮城県立松山高等学校の敷地となっています。
又、上野館表門鯱瓦が現存し、上野館の数少ない遺構として貴重な事から昭和61年(1976)に大崎市有形文化財(考古資料)に指定されています。
上野館跡:上空画像
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典4[宮城県]-株式会社人文社
・ 現地案内板-松山町教育委員会
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