亘理城(要害)

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概要・歴史・観光・見所
亘理城(要害)概要: 亘理城は案内板によると「 この地に居を構えた亘理城(要害)亘理氏が天正19年(1591年)涌谷に移った後、片倉小十郎景綱がここに入った。慶長7年(1602年)片倉氏は白石城に移り、居城を引き継いだ伊達成実は亘理要害の改修を行い又、城下町を建設し、亘理郡と相馬郡の一部を治めた。通称の臥牛城は賀名であって、地形が牛の臥せた形に似ているのがこの名のおこりともいわれている。 亘理町教育委員会 」とあります。

亘理城(要害)本丸の解説板には「ここは旧亘理要害(御館)の本丸のあった所である。南北に通ずる町道(切通し)を隔てた東側の台地も本丸の一部で、町道は明治に入ってから開かれたものである。本丸は北、東、南を内堀で囲まれていた。その内北、東の掘は埋め立てられ南の掘だけが現在残っている。要害の大手は南で、大手門は本丸の南下にあった。本丸に南から入る詰め門、北から入る裏門は切通しの部分にあった。明治維新まで本丸には20棟以上の建物が建っていたことは確かであるが、維新後間もなく総て取り壊され、資料も残っていないため実態は不明である。戊辰戦争で仙台藩が敗れ、西軍との降伏の調印が行われたのはこの場所である。 亘理町教育委員会 」とあります。

亘理城(要害)内堀の解説板には「この沼は、旧亘理要害本丸を囲む内堀の一部で、やげん掘(薬研掘)又は、はやげん沼(薬研沼)といわれていた。かつて、要害本丸は北、東、南を内堀で囲まれていた。そのうち北、東の掘は埋め立てられ、現在残っているのは南側の掘の一部のこの掘(沼)だけである。亘理要害の原型が分かる遺構は現在はほとんど残っている数少ない貴重な遺構である。北側がけの上の台地が亘理要害の旧本丸で、ここはその南下で大手側にあたる。ここより南東3、40メートルの所に東向きに大手門があり、北側がけの右上に詰め門(つめのもん)があった。また、沼の南側には兵具蔵(ひょうぐぐら)(弓矢などを入れておくくら)があった。・・・(後略) 亘理町教育委員会 」とあります。亘理城(要害)は明治維新後に仙台藩が廃藩となり、それを受けて廃城、多くの施設は破却、払い下げとなり、城内には建物の遺構はありませんが、大所門が常因寺(亘理町祝田)の山門、本丸詰の門が専念寺(亘理町上町)の山門に移築現存しています。

亘理城(要害):写真

亘理城跡
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