鹿嶋天足和気神社

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概要・歴史・観光・見所
鹿嶋天足和気神社(亘理町)概要: 鹿嶋天足和気神社は宮城県亘理郡亘理町逢隈鹿島字宮前に鎮座する神社で、藤原時平や忠平が編纂したという延喜式神名帳に記載されている式内社です。延喜式が施行されたのが康保4年(967)ですから鹿嶋天足和気神社の創建はそれ以前となり、かなりの古社だと推察されます。案内板によると「鹿島三社の1つである。三門山から北鹿島に遷され後、五代実氏が貞享3年(1686)に北鹿島からここに遷した。寛政2年(1790)に建立された拝殿が、現在の神輿庫である。現在の社殿は、明治41年(1908)に建立された。」とあります。亘理周辺は阿武隈川の河口にあたる事から古代から要地とした考えられていたようで、平安時代には陸奥国亘理郡衙が築かれ、周辺の政治の中心でした。それらの事から鹿島三社である伊豆乃比気神社、鹿島緒名太神社、天足和気神社と阿福麻河伯神社の4つ式内社が狭い地域に密集して建てられたと思われます。三門山も204.9mの低山ですが、阿武隈川を見下ろす事が出来る霊山と考えられてきたのではないでしょうか。

鹿嶋天足和気神社は伝承によると景行天皇41年(111)に日本武尊が東征の為、当地まで進軍した際に三門山の山頂に鹿島神宮(茨城県鹿嶋市大字宮中)の祭神である武甕槌神の分霊を勧請したのが始まりとされます。奈良時代の延暦元年(782)には賊徒を掃討する祈願が行われ、念願成就すると勲五等封二戸を授けられ、貞観4年(862)には官社となり、同年従四位上に列しました。天慶4年(941)に三門山から北鹿島の樫木山に遷座し、中世は2千5百束の社領が安堵されていましたが、戦国時代の天正年間(1573〜1593年)の兵火で焼失し衰微しました。

鹿嶋天足和気神社はその後再興され江戸時代には歴代亘理城(要害)城主伊達家の崇敬社として庇護され、貞享3年(1686)には当時の城主伊達実氏が近くに御殿を造営する事になり現在地に遷座し、寛政2年(1790)には伊達村氏によって社殿が造営され例祭には家臣を派遣しています。明治時代初頭に発令された神仏分離令によって仏教色が一掃され、明治5年(1872)に郷社に列し、明治44年(1911)に神饌幣帛料供進社に指定されています。

現在の鹿嶋天足和気神社社殿は明治41年(1908)に造営されたもので、拝殿は木造平屋建て、切妻、桟瓦葺き、平入、桁行3間、正面1間向拝付き。本殿は一間社神明造、銅板葺き。神輿庫は寛政2年(1790)に鹿嶋天足和気神社拝殿として造営されたもので、木造平屋建て、寄棟、桟瓦葺き、平入、桁行3間、外壁は真壁造り板張り。祭神:武甕槌神。

鹿嶋天足和気神社:写真

鹿嶋天足和気神社
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