安福河伯神社(亘理町)概要: 安福河伯神社は宮城県亘理郡亘理町逢隈田沢 字堰下に鎮座している神社です。安福河伯神社は案内板によると「この神社は、阿武隈川の川の神(河伯)を祭神として祀る。「延喜式神名帳」(10世紀)にものっている由緒ある神社(延喜式内社)である。この地は、古来阿武隈川下流の治水用水、朝廷の北辺の守りとして重要な場所だったのだろう。そのため、この地にこの神社が祀られたと思われる。社名は、「貞観紀」(862年)には阿福麻神社、「封内風土記」(1769年)には阿武隈明神社、「安永の風土記書上」(1779年)には阿武隈神社、以前揚げてあった扁額には「阿武隈大明神」とあるが、みな同一社である。
古来均衡の人びとに崇敬され、旧藩時代には邑主亘理伊達家によって手厚く保護されていたという。また、明治から昭和20年(太平洋戦争終戦)までは郷社であった。この神社は、もの亘理町逢隈田沢字宮原の阿武隈川近く(常磐線鉄橋に西200メートルの堤防の下)に鎮座していたが、のち(年代不明)現在地の氷上山(三掴山)の丘の上に遷宮された。
現在の本殿は、流れ造りで間口2間奥行き2間、拝殿は4間に3間、幣殿は2間に1間。建築年代は本殿が安政5年(1858年)8月で拝殿・幣殿はそのあとである。本殿は、はじめ亘理伊達氏が寄進する計画であったが種々の事情から実現せず、氏子や崇敬者によって建立された。
本殿は、亘理では建築年月のわかる数少ない江戸時代後期の建物で、彫刻が見事である。石段の登り口にある鳥居は花崗岩で、様式は明神造りである。 亘理町教育委員会 」 とあります。
安福河伯神社の創建は不詳ですが、伝承によると景行天皇41年(111) に日本武尊(景行天皇の皇子)が東征中に当地を訪れ勧請されたのが始まりとされます(亘理町に鎮座し同じく式内社である鹿嶋天足和気神社と鹿島緒名太神社も景行天皇41年に創建されたとの伝承が残されています)。古くから格式が高く仁寿元年(851)に正六位上、平安時代に編纂された「三代実録」によると貞観5年(863)従五位下に列し、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には式内社として記載されていました。永禄年間(1558〜1570年)の火災と、天正年間(1573〜1593年)の兵火により大きく衰微しましたが、その後再興され、慶長7年(1602)には亘理城(要害)の城主伊達成実によって社殿が造営され寛政5年(1793)には社領12石が寄進されています。
安福河伯神社は当初、水神山(水上山・三掴み山)山頂に鎮座していましたが、永禄年間(1558〜1570年)の火災で社殿が焼失すると宮原の地に遷座再建され、江戸時代後期の弘化3年(1848)に旧地に近い現在地に遷座しています。
明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て、明治12年(1879)に郷社に列し、明治40年(1907)に神饌幣帛料供進社に指定されています。
安福河伯神社本殿は安政5年(1858年)に造営されたもので、一間社流造、鉄板葺き、外壁は真壁造板張り、江戸時代末期の社殿建築の遺構として貴重な事から平成10年(1998)に亘理町指定文化財に指定されています。
拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行3間、張間1間半、正面1間向拝付き、外壁は真壁造板張り。祭神:速秋津比売神、大年神、経津主神、猿田彦神。
安福河伯神社:上空画像
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