角田城(要害)概要: 角田城周辺は戦国時代、伊達と相馬の領土の交差していた地域で戦略的に重要視されていました。奥州仕置きによって岩出山城へ本城を移すと、この地には伊達一族の重臣である伊達成実を配置します。成実は政宗の従弟にあたり、最も信頼している家臣の1人で、武勇誉高い武将でした。
しかし、文禄4年(1595)に成実と政宗の間に不仲が生じ成実が出奔すると、角田城開城を巡り、混乱が起こり、成実の家臣30人が討ち取られるという騒動がありました。その後、慶長3年(1598)に石川昭光が志田郡千石城より伊具角田に移封され角田城へ入ります。
昭光は政宗の叔父にあたりますが、源頼親の末裔の物津源太有光を祖とする石川家を継いだ為、伊達一門の中でも一目置かれる存在でした。とは言え、石川家は元々独立した大名として伊達家とは対立した関係で、天正17年(1589)の摺上原の戦いで伊達政宗が大きく台頭した事で形式上伊達家に従わずを得ない状況に追い込まれたに過ぎませんでした。
当然、大名としての自負はあったものの、天正18年(1590)の小田原の役の際、当初は豊臣家に対して対立姿勢を示した伊達家に従い参陣を控えていると、ギリギリのタイミングで政宗が豊臣家に下った為、石川昭光は梯子を外され小田原への参陣は叶わず奥州仕置きにより改易となっています。最後まで改易回避の交渉を行っていた家老である溝井六郎は石川家の居城である三芦城(福島県石川郡石川町字下泉)に火を放ち自刃して果てています。
このような経緯から石川昭光も少なからず伊達家に恨みを持っていたと思われますが、結局、伊達家の家臣となり、千石城(宮城県大崎市松山)6千石で配されました。政宗も気遣ってか?石川家を一門筆頭として重用し、角田城に遷された際には諸侯並の1万石を与え、後に2万1千石まで加増されます。
石川宗弘の代には大沼・赤沼・舟沼から水を掘に引き込み、さらに町の水路に繋げる工事が行われています。元禄4年(1691)には角田要害の料理之間が出火元となり御殿が焼失しています。
角田城は平山城で何層かの郭で囲まれていますが一国一城令後は要害(要害屋敷)となり明治維新まで石川家の居館として続きます。現在、城跡は本丸が高校、二の丸が中学となっていますが、遺構のようなものはなく、かつての城門が長泉寺と旧氏丈邸に移築され現存しています。
臥牛城(角田城)跡:上空画像
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