坂元要害(蓑首城)

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概要・歴史・観光・見所
坂元要害(蓑首城)概要: 坂元要害は当初、蓑首城と呼ばれ元亀3年坂元要害(蓑首城)(1572)に坂本三河俊久が築いたとされます。坂本氏は鎌倉幕府有力御家人だった千葉常胤の三男・武石胤盛の後裔である亘理氏の庶流で南北朝時代時代以降、小斎峠に近い新城山城を拠点としていました。元亀元年(1570)、坂本隆俊が行政的な利便性を図る為、新たに愛宕山城を築き本城を遷しましたが、領土に接する相馬盛胤の侵攻を受け隆俊は討死、跡を継いだ俊久が愛宕山城を放棄し、蓑首城(坂元城)の築城に至りました。天正19年(1591)、主家である亘理重宗が伊達政宗の岩出山城(宮城県大崎市岩出山)移封に伴い、涌谷城(宮城県涌谷町)に遷った為、隆俊の跡を継いだ坂本定俊も随行しこの地を去っています。蓑首城(坂元城)は旧二階堂家の家臣で後に伊達家の家臣となった浜尾行泰が修復を行い後藤信康が桧原城(福島県北塩原村)から2千5百石で入封しています。信康は慶長5年(1600)の白石城(宮城県白石市)の攻防戦に大功をたて宮沢城(宮城県大崎市)に移封、代わって黒木宗俊が入封します。慶長15年(1610)に湯目景康が入封、景康は元和2年(1616)の大坂夏の陣で大功を挙げた事で、3千8百石の石高となり佐沼城(宮城県登米市)に移封、代わって大條宗綱が蓑首城(坂元城)坂元要害(蓑首城)に2千石(後に4千石)で入城します。大條氏は伊達宗遠の子の孫三郎宗行が「大條」姓を名乗ったのが始まりとされ代々伊達家の家老や江戸詰めなどの要職を務めました。その後も大條氏は明治維新まで領主を歴任し15代道直は豊臣秀吉縁の茶室を拝領しするなどの実績を挙げています。一方、蓑首城(坂元城)は慶長20年(1615)に発令された一国一城令により、城郭とは認められず、仙台藩(本城:仙台城)が定めた行政区である「要害」と呼ばれるようになり、正保元年(1644)に地名を「坂本」から「坂元」へ変更した事で「坂元要害」と呼ばれるようになりました。

城郭は本丸を中心に北側に向って二ノ丸、三ノ丸を配する連郭式平山城で二重の空掘りと三重の土塁で囲い、イバラやカラタチなど密植させたそうです。明治2年(1869)に廃城、明治3年(1870)に焼失して現在は本丸跡の坂元神社が鎮座し郭や空掘りなどの遺構が残り、大手門と豊臣秀吉縁の茶室が坂元要害に隣接する民家に移築保存されています。

坂元要害(蓑首城):写真

坂元要害(蓑首城)
[ 付近地図: 宮城県山元町 ]
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