川崎城(要害)概要: 前身である川崎城は江戸時代初期の慶長13年(1608)から慶長15年(1610)にかけて砂金実常によって築かれたのが始まりとされます。砂金氏の祖は源義経の家臣だったとも、浪人だった砂金蔵人大夫常重が南北朝時代頃に当地に土着したとも云われ、それ以降は土豪として当地を支配しました。
戦国時代に入ると伊達家の台頭により従うようになり、数々の戦に従軍し功績をあげ、江戸時代に入り居城を中内城から川崎城に遷る事に至りました。
この地は奥州街道の宮宿と山形城下を結ぶ笹谷街道の宿場町で戦略的な拠点の1つだった事から慶長20年(1615)に発令された一国一城令後も要害(要害屋敷)として事実上城郭が維持されました。
砂金氏は大坂夏の陣後に伊達家一門となり4代続きましたが元禄15年(1702)、重常に跡継ぎが無く断絶します。
その後、伊達宗興(宮床伊達家)が入封しましたが享保7年(1722)から伊達村詮が川崎2千石の領主となり以後7代に渡りその後裔がこの地を支配しました。最後の当主になった7代伊達邦賢は戊辰戦争の際、本家伊達家に従い奥羽越列藩同盟に参加し、敗戦、仙台藩が廃藩になると川崎要害も廃されました。
川崎城(要害)は標高201mの丘陵の西端を利用した平山城で、丘陵と城郭部とは空堀で分断し周囲を土塁で囲み、要害内部には政庁他、領主の居館、家中屋敷などが設置されていました。現在、本丸にあたる主郭は公園、二ノ丸にあたる副郭は川崎小学校の校庭として整備され改変されていますが、土塁や櫓台と思われる土盛などの遺構を見る事が出来ます。
城山公園(前川城跡):上空画像
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