村田町(歴史)概要: 村田町の中心部にある白鳥神社は景行53年(123)に日本武尊が祭神として創建されたと言われています。日本武尊亡くなった後、白鳥に姿を変え東北に飛び立ったという故事からなのか、村田町を含め白鳥伝説が地域に少なからず影響しています。
特に村田町は日本武尊が東夷東征の際、陣を張った場所と伝わる場所の1つで、白鳥信仰の根深い地域で同じ村田町の熊野神社や隣接する蔵王町の刈田嶺神社や大河原町の大高山神社には白鳥が何らかの形で関係しています。
平安時代後期になると、村田町周辺は前九年合戦の戦場となり、朝廷側の源頼義、義家は、俘囚の長である安倍氏に苦戦を強いられます。仙台市太白区にある坪沼八幡神社は元々、根添城跡地で安倍氏の拠点の1つで、根添城を巡る攻防は苛烈を極めたと伝えられています。
又、義家が村田町付近で安倍氏側の軍に包囲され、絶体絶命となった時、白鳥神社境内にある藤の木が2匹の大蛇となって窮地を救ったという伝説も残っています。これらの故事から文治5年(1189)に行われた「奥州合戦」では、源頼朝が戦勝祈願に訪れて白鳥神社に宝鏡と太刀を寄進しています。
中世になると村田町一帯は伊達家の家臣だった村田氏が統治し、村田城では伊達政宗の長男兵五郎(後に宇和島藩藩主)が生まれています。近世に入ると、村田町は交通の要所と軍事的拠点として重要視され、一族である政宗の七男宗高が城主となり3万石を領しました。宗高は幼少の領主でしたが、刈田岳が噴火の祈祷など善政を行い、領民から慕われていましたが19歳で天然痘により病死し龍島院に埋葬されました。
以後は奥山氏や柴多氏、片平氏などの重臣達が村田城主(所)を歴任しています。又、村田町は奥州街道と羽州街道を繋ぐ街道沿いにあり、四方に道が延びる交通の要所で地理的に優位な土地でした。
藩が紅花や藍の栽培に力を入れていた事もあり、村田町には主に仙南地方の紅花や藍が集められ、日本海の北廻り航路によって京都や大坂と取引を行いました。町では市が立ち、生糸・農産物を取り扱うだけでなく酒などの醸造業を営む豪商も生まれ、商業都市として発展しました。
明治維新後も商都としての立場は変わらず、村田町は周囲の中心となっていましたが、東北本線が開通すると、線路が引かれなかった村田町は急速に衰退する事になります。この事は現在の村田町の町並みが良く現していて、多くの資本が入り込み町並みがどんどん失われていく他地域と比べると一目瞭然です。
村田町の蔵の町並みは幾つもの偶然と必然が重なりあって残された町並みと言えるのかも知れません。宮城県内の豪商建築に見られる、道路側に土蔵の平入りの店蔵(規模が大きい町屋はさらに妻入の土蔵が道路側に建つ)と豪勢な棟門があり、大きな火災が無かったせいか、同時期に一斉に建てられたものではなく、各時代の店蔵が建っているのも大きな特徴の1つと言えます。
又、敷地が狭い場所には妻入りの店蔵が採用されるなど、当時の村田町での土蔵への思いは並大抵ではなかったように感じます。村田町は「小京都」にも認定され、土蔵の町並みをいかした町づくりに取り組んでいます。
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