竹駒神社

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概要・歴史・観光・見所
竹駒神社(岩沼市)概要: 竹駒神社は宮城県岩沼市稲荷町一丁目に鎮座している神社です。日本三稲荷と称される竹駒神社は案内板によると「御創建: 本神社は承和9年(842)小倉百人一首にも名を連ねている小野篁卿が陸奥守として着任に際し東北開拓、殖産興隆の大神を奉祀して御創建されました。 御祭神: 人間生活の基となる衣、食、住の守護神であられる倉稲魂神、保食神、稚産霊神の三柱の稲荷神社をお祀り申し上げ古くから日本三稲荷の一社に数えられて産業開発、五穀豊穣、商売繁盛、海上安全、家門繁栄、安産、厄除、交通安全、所願成就など生成発展、産霊の大神として全国の崇敬者から極めて篤いご信仰を仰いでおります。」とあります。

竹駒神社の創建は平安時代の承和9年(842)、当時の陸奥守とされる小野篁によって伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)の分霊を勧請し創建された古社です。ただし、小野篁は陸奥守だった小野岑守の長男として生まれ、父親に従い陸奥国で幼少期を過ごしましたが、承和9年(842)には道康親王(文徳天皇)の東宮学士(皇太子の学友的存在の家庭教師)に抜擢されている為、当時は京都に住んでいたと思われます。しかし、小野一族が陸奥守に赴任した例も多く、その内の誰かが竹駒神社を創建し、時代が下がり記憶が曖昧になると、著名人である小野篁に差し替えられたのかもしれません。

竹駒神社を創建したと伝わる小野篁卿は陸奥守だった小野岑守の子供で、順調に出世を繰り返し、承和元年(834)には遣唐副使となり2回に渡り渡唐を試みますが何れも失敗、承和5年(838)の3回目では上司が乗船した船が漏水して篁の船に乗り込んできた事で抗議の意味で下船、その後も批判的な態度を改めない事が問題視され嵯峨上皇の命により官位や役職が剥奪され隠岐へ流罪となっています。承和7年(840)に許されると再び官位が与えられ、要職にも復帰、最終的には参議左大弁従三位が与えられています。竹駒神社の由緒によると承和9年(842)に小野篁が陸奥守に赴任している際に創建した事になっていますが、現在知られる資料の中では歴代陸奥守にその名を見る事は出来ません。

ただし、小野岑守と坂上当道の就任期間は44年間と長期間である事からその間に複数人居た可能性は高く全く荒唐無稽な話ではありませんが、知られている経歴でも伝承でしか伝わっていません。そういう意味では福島県小野町には小野篁の居館と伝わる館跡や、茨城県稲敷市には常陸国司小野篁が創建したと伝わる逢善寺がありますが、こちらも伝説の域を出ません(歴代常陸国司にも小野篁の名前を見る事は出来ません)。又、小野篁は百人一首に名を連ねる著名な歌人として知られますが陸奥を題材とした歌は見られない事からも当地に赴任したのかは疑問があります。さらに言うと篁は隠岐の島の流罪が許された後に正5位下に復位している事から、陸奥守は従五位上の官位相当にあたる為、身分的には釣り合いが合わず矛盾し、これを事実と捉え左遷されたという説もあります。

当地に伝わる伝説によると、小野篁は陸奥守に就任し国府が置かれている多賀城(宮城県多賀城市)に赴任する前、城州紀伊郡伊奈利山(京都府京都市伏見区深草藪之内町:伏見稲荷大社)に詣で、国家鎮護を祈願すると白狐が出現したので函に入れ陸奥国に下向しました。名取郡南長谷村の橋に差し掛かった際、函の中から白狐が8回鳴いた事から小野篁は不思議に思い函を開けると、白狐は函から飛び出し武隈の林に姿を消しました。小野篁は武隈の林が聖地と悟り竹駒神社を創建したそうです。長谷村の橋はこの伝説から「八聲橋」と呼ばれ、現在は訛って「弥五郎橋」になったと伝えられています。

竹駒神社より南に位置する亘理郡亘理町長瀞に境内を構える尊久老稲荷神社にも関係深い伝説が伝えられています。伝説によると、陸奥守に就任した小野篁が当地に巡視に赴いた際、道に迷い難儀していると、一人の童が出現し目的地である亘理長瀞まで導いてくれました。すると、童は「私はこの緑深い山奥に住んでいます。」と言って黒狐に姿を変え姿を消しました。篁は黒狐に感謝し祠を設けて篤く祭ったと伝えられています。又、竹駒神社の白狐と、尊久老稲荷神社の黒狐は夫婦になったとも云われています。

何れにしても、陸奥国の実力者によって竹駒神社が創建され、その後も奥州平泉(岩手県平泉町)に本拠をもった奥州藤原氏や仙台藩(宮城県仙台市:本城−仙台城)の藩主である伊達氏などから社領の安堵や社殿の造営などが行われ社運も隆盛しています。伊達家の崇敬は篤く、天文6年(1537)には伊達稙宗が再興、正保元年(1644)には2代藩主伊達忠宗が別当寺院である竹駒寺に寺領を寄進、5代藩主伊達吉村は社殿の造営や、社領の寄進、和歌31首を奉納、吉村筆の「竹駒明神」の神号額を奉納、赤井文次郎得水の「竹駒神社」の神号額を奉納、延享元年(1744)には6代藩主伊達宗村が社領及び竹駒寺の寺領として6貫819文を寄進、明和5年(1768)には伊達重村が社領を寄進、安永6年(1777)に御旗を奉納、安永7年(1778)には「雲龍の額」を奉納、寛政4年(1792)と文化9年(1812)には伊達斉村が朱印状を発布、その後も伊達斉義、伊達斉邦、伊達慶邦が朱印状を発布しています。又、格式が高く、文化4年(1807)には正一位の神階を受けるなど、日本三稲荷に数えられています(日本三稲荷については諸説あり)。

竹駒神社は古くから神仏混合の形態を維持していましたが明治初頭に発令された神仏分離令により別当だった竹駒寺と分離、明治7年(1874)に県社に列しました。境内には神社山門(随神門)があるなど当時の名残が見られます。又、竹駒神社の発展に伴い門前町が形成され、社号に肖り馬(駒)の集散地にもなり、古くから馬市(お日市)も開催され明治時代には軍馬購買地に指定され、昭和初期には馬事博物館が建設されています。江戸時代の俳聖松尾芭蕉も奥の細道の際、当社を参拝した可能性が高く、近くにある「二木の松」を題材とした「佐くらより松盤二木を三月越し」の句碑が建立されています。明治9年(1876)と明治14年(1881)に行われた明治天皇の東北巡幸では竹駒神社の施設が天皇の行在所として利用されています。祭神:倉稲魂神、保食神、稚産霊神。

竹駒神社の社殿は仙台藩5代藩主伊達吉村が造営した豪勢な建物でしたが、平成2年(1990)放火で拝殿、幣殿、本殿は焼失し、平成6年(1994)に再建されています。現在の随神門は文化9年(1812)に造営されたもので、三間一戸、入母屋、銅板葺、総欅造り、八脚楼門、桁行8.537m、梁間4.840m、下層部両側には随神が安置、中林梧竹の筆の「丹心報国」の扁額、上層部には高欄が廻り、組物や精緻な彫刻が施され、7代藩主伊達重村筆「正一位竹駒神社」の神号額が掲げられてます。竹駒神社随身門は江戸時代後期の楼門建築の遺構として貴重な事から平成2年(1990)に岩沼市指定有形文化財に指定されています。

竹駒神社向唐門は天保13年(1842)に造営されたもので、一間一戸、総欅造り、唐破風、四脚門、銅板葺、桁行5.44m、梁間5.472m、懸魚には鳳凰、木鼻には獅子、門扉には火炎型宝珠など細部には精緻な彫刻が施され、正面には太政大臣三条実美筆の「鳳翔」の扁額、向唐門としては宮城県内最大級の規模を誇ります。竹駒神社向唐門は江戸時代後期の秀逸な古建築物として貴重な事から平成2年(1990)に岩沼市指定有形文化財に指定されています。※平成31年(2019)に宮城県指定有形文化財に指定されています。

※日本三大稲荷には諸説あり伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)や笠間稲荷神社(茨城県笠間市)、豊川稲荷(愛知県豊川市)、祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)、最上稲荷(岡山県岡山市)、鼻顔稲荷神社(長野県佐久市)、千代保稲荷神社(岐阜県海津市)、瓢箪山稲荷神社(大阪府東大阪市)、草戸稲荷神社(広島県福山市)などが挙げられます。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典4[宮城県]-株式会社人文社
・ 日本の城下町2[東北(二)]-株式会社ぎょうせい
・ 現地案内板(由緒)-竹駒神社
・ 現地案内板-岩沼市教育委員会

竹駒神社:随身門・社殿・境内・写真

竹駒神社境内正面に設けられた朱色の大鳥居と大型燈篭
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竹駒神社参道沿いにある石鳥居と燈篭群 竹駒神社石畳みから見た随神門 竹駒神社拝殿正面と立派な向拝 竹駒神社本殿と幣殿と透塀
竹駒神社(岩沼市)随身門(楼門)と正面に掲げられた絵馬 竹駒神社(岩沼市)境内社である命婦社には神使である神狐が祭られています 竹駒神社(岩沼市)石燈篭を支える力士像(4躯) 竹駒神社(岩沼市)境内全景


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