登米町(歴史)概要: 文治5年に行われた奥州合戦により平泉(現岩手県平泉町)を本拠とした奥州藤原氏が滅亡すると登米町を含む一帯は戦功のあった御家人葛西氏が支配する事になります。
葛西氏は当初石巻城を本拠としていたようですが、その後は現在の登米町の中心部である寺池に登米城(寺池城)を築き本拠とします。
戦国時代末期に奥州仕置により葛西氏改易され、登米町周辺は功のあった木村氏が統治しますが、悪政と葛西、大崎両氏の旧家臣団の画策もあり大規模の一揆が起こり登米城も戦火にまみれます。一揆鎮圧後は伊達領に組み込まれ、近世に入った慶長9年(1604)に伊達家一門の白石宗直が1万5千石(後新田開発などのにより2万1千石)で入城し、周辺を統治し、現在の登米町の原型となる町づくりを行います。
登米町は一関街道(一関〜石巻)と登米街道(築館〜登米)が交差する交通の要所で北上川舟運の川港でもあった為、周辺の政治的、経済的な中心地として重要視され、仙台藩の中でも高禄な伊達一門を配しました。
町割りは城を中心に南側を武家町として、北上川沿いに延びた一関街道沿いには商人町、城から城下町を挟んだ丘陵には葛西氏の菩提寺である龍源寺や伊達氏(白石氏)の菩提寺の養雲寺、崇敬社である八幡宮(登米神社)などを配した寺町を構成しています。
現在の登米町でもこれらの町並みが残っていて武家町には鈴木家住宅(春蘭亭)を代表に10棟の武家屋敷が現存し、商人町には鈴彦商店や海老喜などの町屋が軒を連ねています。
明治時代に入ると周囲の中心的存在だった登米町は登米県の中心として県庁が置かれ急速に西欧化していきます。後に宮城県として組み込まれますが、その前に一関県や水沢県など短期間の間に数回も県が変わっています。登米町にはその時の名残とも言える旧水沢県庁庁舎や旧登米高等尋常小学校、旧登米警察署庁舎などの洋風建築が残っていて町の顔的存在となっています。
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