登米町(武家町)・町並み

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登米町:町並み
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【登米町】−文治5年(1189)の奥州合戦で大功のあった葛西清重が伊沢郡・磐井郡・牡鹿郡などを与えられ有力御家人の地位を確立しました。しかし、葛西家創建は鎌倉で采配を振るい領地には家臣を派遣していたようで、5代葛西清宗の頃に日和山城(石巻城宮城県石巻市)を築いて居城としています。その後、葛西氏は中奥七郡を領する大名へと成長に、それに伴い、戦国時代の天文5年(1536)に15代葛西晴胤、又は天正元年(1575)に16代葛西晴信が寺池城(登米城)を築いて本拠を移しています。しかし、伊達家の台頭により従属するようになり、天正18年(1590)には伊達家の勧めで小田原参陣を怠ると、同年の奥州仕置きにより改易され、大名家としての葛西氏は没落します。寺池城には奥州仕置きで大功があった豊臣家の家臣木村吉清が入りましたが、治世は安定せず、伊達政宗の画策もあり、旧葛西家の遺臣が一揆を起こし、寺池城を一時占拠、木村吉清は佐沼城で籠城を余儀なくされました。木村吉清はその責任により改易となり、伊達政宗も自作自演が事実上露呈し、米沢城(山形県米沢市)63万石から岩出山城宮城県大崎市岩出山町)56万石に減封となっています。

江戸時代に入ると仙台藩(宮城県仙台市:本城−仙台城)では行政区間として「城」、「要害」、「所」、「在所」の単位を設けて、藩主である伊達家一族や有力家臣を配し、寺池は「要害」として慶長9年(1604)に白石宗直が1万5千石で入り、寺池要害や城下町の整備拡張、新田開発や河川工事が行われ、伊達(天和2年:1682年に伊達姓を賜り伊達家一門に格付けられました。)村直の代には2万石に至っています。又、登米町は一関街道と登米街道の分岐点で、北上川舟運の川湊町でもあった事から、多くの人が行き交い、物資の集積場になった為、飛躍的に発展し、仙台伊達宗家から養子を迎えるなど重要視されました。明治時代に入り廃藩置県が執行されると登米県が立県し、中心部には様々洋風の公共施設が建てられ、現在でも旧水沢県庁庁舎や旧登米高等尋常小学校、旧登米警察署庁舎が残り「宮城の明治村」の異名があります。

【武家町】−寺池要害は一国一城令以後、形式的に陣屋扱いですが、事実上の城郭で、要害の周辺には武家町を町割し館主である登米伊達家の家臣が住んでいました。明治維新後は多くの家臣は登米の地を離れ、武家屋敷も解体されましたが、後小路や前小路などに10棟(鈴木家、熊谷家、亀井家、鈴木歯科、清野家など)の武家屋敷が現存し当時の主屋や門扉、土塀、防衛の際に兵士の身を隠すための武者隠し、見通しが悪く、大軍の行動が制限される枡形など武家町の町並みの名残が見られます。中でも鈴木家住宅(春蘭亭)は武家屋敷の代表例で、木造平屋建、寄棟、茅葺、妻入、「直ご家形式」、式台付玄関、登米市(旧登米町)指定有形文化財に指定されています。現在は「春蘭亭」と呼ばれる施設として一般公開され、内部は喫茶空間となっています。

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