石巻市(歴史)概要: 石巻市は古くから開けていた地域で、日本書紀に「日本武尊の東征があり、海路玉浦から竹水門に至って蝦夷を平定し、日高見を回って帰った」ことが書かれています。
日高見とは諸説ありますが、現在の石巻市を含む北上川(日高見川)下流域を指す説もあり興味深いものもあります。延喜式神名帳に記された式内社が石巻市周辺に集中している事も注目される点で、当時の朝廷が蝦夷に対しての懐柔政策や支配の強化などが考えられます。
文治5年(1189)に平泉(現岩手県平泉町)を本拠としていた奥州藤原氏が源頼朝によって滅ばされると、功のあった葛西氏が奥州総奉行となり戦国時代末期まで現在の石巻市を含む牡鹿・気仙・胆沢・磐井・江剌の5郡を治めます。
葛西氏は寺池城に移るまでは石巻城を居城とし、市を開くなど産業の発達などにも力を入れていました。葛西氏は徐々に力を蓄え石巻市を中心に胆沢、磐井、牡鹿、本吉、気仙、登米、桃生の7郡を支配する大名へと成長し、隣接する大崎氏、伊達氏などと激しく対立するようになりました。
戦国末期になると宮城県南方を押えた伊達氏が強大になり、葛西氏も伊達氏から養子を迎えるなど生き残り政策を図りますが、結果、家臣団が混乱し、豊臣秀吉による小田原攻めに参加する事が出来ず改易させられます。
その後領主となった木村氏が悪政を敷いた為、葛西氏、大崎氏の旧家臣などの思惑もあり大一揆となり木村氏は寺池城、佐沼城と次々と城を失うといった失態を重ねます。一揆は蒲生氏郷や伊達政宗らが鎮圧されますが木村氏は責任をとって改易となります。
一揆後は石巻市を含む宮城県南部が伊達氏の領地となり近世を迎え、以降は仙台藩の主要港として発展していきます。特に北上川の河口という事もあり石巻港には年貢米を中心に多くの物資が集められ、藩の米蔵は45棟を数え舟運船は836隻、千石船は560隻あったと言われています。
明治維新後は一時石巻県が置かれ、石巻市がその中心となりましたが、後年は宮城県に含まれます。現在の石巻市の町並みは港町らしく路地も多い複雑な構造を残していて大正から昭和初期の建物が目立つ独特なものを感じます。
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