大崎八幡宮(仙台市)概要: 大崎八幡宮は宮城県仙台市青葉区八幡に鎮座している神社です。大崎八幡宮の創建は由緒によると平安時代初期に坂上田村麻呂が東夷東征の祭、現在の岩手県奥州市水沢区近郊に胆沢城(当時は蝦夷に対する最前線の拠点)を築きその鎮守社として宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の分霊を勧請し鎮守府八幡宮を創建したのが始まりとされます。
当時の奥州市より以北は蝦夷と呼ばれる東北地方に独立した勢力が存在し、蝦夷を朝廷の勢力下に治める為に胆沢城と呼ばれる古代城柵が築かれました。そして、朝廷から征夷大将軍に就任した坂上田村麻呂が胆沢城に派遣され、その坂上田村麻呂が胆沢城の鎮守として宇佐八幡宮から八幡神を勧請し、大崎八幡宮の前身となる鎮守府八幡宮を創建しました。
室町時代になると斯波氏の一族である大崎氏が本拠を陸奥に移し奥州管領(後に奥州探題)を担うようになり、実質支配は限定的だったものの、格式としては出羽国、陸奥国の国人領主を統率する地位を得ました。
大崎氏は次期は不明ですが岩手県奥州市水沢区に鎮座していた鎮守府八幡宮を居城である名生城(宮城県大崎市)の城下に近い現在の大崎市田尻町付近に遷し大崎八幡宮と呼ばれるになりました。大崎氏は戦国時代には一国人領主に転落、さらに隣接する葛西氏の抗争により疲弊し、家臣筋の古川氏の反乱により大きく衰退し戦国時代末期には台頭してきた伊達氏に従属するようになりました。
天正18年(1590)の小田原の役で、大崎氏は豊臣軍への参陣を怠った為、奥州仕置きにより改易となり、一方、伊達政宗も惣無事令違反の為に芦名家から奪い取った会津領が取り上げられています。
さらに、天正19年(1591)に発生した葛西大崎一揆の不手際により本拠を米沢城(山形県米沢市)から大崎氏の本拠に近い岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に移封となります。その際、米沢城時代に篤く信仰していた成島八幡神社(山形県米沢市)の祭神を大崎八幡宮に合祀し、大崎八幡宮を伊達家の信仰の対象としました。
大崎八幡宮:上空画像
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで伊達政宗は東軍に与し、西軍方の奥羽方面の主力である上杉景勝と戦った功により仙台藩の開府が認められ、新たな本城となる仙台城(宮城県仙台市)が築城されました。大崎八幡宮は伊達家にとって重要な神社だった為、仙台城の城下町への遷座が決定され、町割りの一部として大崎八幡宮の境内地が計画され、慶長9年(1604)から社殿の造営が始まり、概ね慶長12年(1607)に完成しています。
5代藩主伊達吉村も篤く信仰し吉村自ら描いた「大崎八幡宮来由記」の寄進、三之鳥居(扁額の「八幡宮」は吉村筆)の寄進、大絵馬「曳き馬図」、「舟弁慶図」の奉納、大元社の造営と本尊である大元帥明王木像(仙台市指定有形文化財)の奉納などを行っています。
大崎八幡宮の社地は仙台城から見ると乾(北西)にあたり、福門(天門)と呼ばれ、蔵や、福神様を祭ると、縁起が良いと思われる方角で社殿その他藩費で造営される伊達家の崇敬社として明治維新まで続きます。
大崎八幡宮は古くから神仏習合し、別当寺院として龍宝寺(元々は成島八幡神社の別当寺院で、合祀後に大崎八幡宮の別当寺院となりました)が祭祀を司っていました。仙台城の乾方向の守護神だった事に因み、乾の守り本尊である阿弥陀如来を本地仏として八幡堂など呼ばれていました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、社号を大崎八幡神社に改称、平成9年(1997)に旧社号である「大崎八幡宮」に復しています。
社宝が多く江戸時代中期の享保4年(1719)に制作された「木造大元帥明王立像 厨子入」は平成9年(1997)に仙台市指定有形文化財(彫刻)に指定されています。例祭で奉納される能神楽は古式を伝える神事として貴重な事から昭和47年(1972)に宮城県指定無形民俗文化財に指定されています。仙台十二支守り本尊(戌亥:阿弥陀如来)。祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。
拝殿・本殿・石の間: 大崎八幡宮の社殿は慶長9年(1604)から慶長12年(1607)まで長い期間に渡って造営された仙台藩きっての霊廟建築です。拝殿、石の間、本殿と繋がる権現造りの典型で、梅村日向守家次や梅村三十郎頼次といった全国に名の知られた棟梁を何人も仙台に呼び寄せて造らせたと言われています。
本殿は入母屋、こけら葺き、桁行5間、張間3間。石の間は両下造り、こけら葺き、間口2間、奥行き5間。拝殿は入母屋、こけら葺き、正面千鳥破風、正面桁行7間、背面桁行5間、梁間3間、正面5間軒唐破風向拝付き。構造体は黒色で塗られていますが、組物や彫刻は極彩色や金箔などで仕上げられ桃山文化を継承し、当時の技術の粋が集められているようです。
内部も細かな彫刻や狩野派が描いたという屏風絵などが所狭しと見る事が出来ます。大崎八幡宮の社殿(拝殿・本殿・石の間)は江戸時代初期の社殿建築の遺構として極めて貴重な事から昭和27年(1952)に国宝に指定されていいます。
長床(神門): 大崎八幡宮の長床の建築年は不明ですが貞享3年(1686)に描かれた絵図には既に書かれていた事から、本殿などと同時期に建てられたと思われます。社殿とは対象的な建物で、素木造りで正面に唐破風があり格の高さを出していますが彫刻や組物なども控えめで落ち着いた雰囲気を持ています。
このように対象的にするのは当然、社殿をより神格化させる演出効果もあったと思われます。別名「割拝殿」と呼ばれている事から、もしかしたら、当時は一般の人達はこれ以上進めなかったのかも、向って左側が神楽殿となっているの意味深です。旧仙台領内には、神社の境内にこのような長床や神社山門があるといった例が非常に多く興味深いところです。
ちなみに大崎八幡宮のものが宮城県最古の長床建築と言われています。大崎八幡宮の長床は江戸時代初期の社殿建築の遺構として大変貴重な事から昭和41年(1966)に国指定重要文化財に指定されています。
二之鳥居・大石段: 大崎八幡宮の二之鳥居(宮城県指定有形文化財)は案内板によると「寛文8年(1668)4代藩主伊達綱村公により寄進されたもので、旧領であった東山郷(現岩手県一関市東山町)より産出した御影石が使用されている。柱裏側の銘文は儒臣内藤閑斎によるもので、虎岩道説により刻された。・・・(後略)」とあります。二之鳥居を越えると長床まで大石段(仙台市登録有形文化財)が続きます。案内板によると「慶長12年(1607)の大崎八幡宮創建時からのものとされる。緊張感のある急勾配のなかにも均衡のとれた石段で98段とも100段とも言われる。・・・(後略)」とあります。
大崎八幡宮:周辺駐車場マップ
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