須岐神社(大衡村)概要: 須岐神社は宮城県黒川郡大衡村駒場下宮前に鎮座している神社です。案内板によると「 当社は延喜式神名帳記載の黒川郡4社の1社で祭神素戔嗚尊を祀る。始め西方の宮高森上に在り建久2年(1109)に地頭児玉弥太郎がここに遷座して、赤崎大明神と稱え椚千本を植え神境とした。里人はこれを千本椚とした。中世時代から支配領主たちの崇敬篤く延享3年(1746)藩主伊達宗村公は疾病平癒祈願のため茂庭求馬社参したといわれ終始一貫して地方の名社として存続し明治六年郷社となる。社殿は江戸時代中期宝暦10年(1760)に神主斎藤能登守の時に新築造営された。本殿は流れ造りこけら葺きで小屋組柱露出吹放の覆屋(雨屋)がかけられている。拝殿は入母屋造萱葺、長床は寄棟造萱葺で大正13年に再建された。 大衡村教育委員会 」とあります。
実際訪れてみると案内板とは異なり、拝殿と長床は新しく建替えられているようです(案内板の建久2年(1109)は1191年の誤りと思われます)。神仏混合の名残でもある随身門(寄棟、桟瓦葺、三間一戸、八脚単層門)も屋根が瓦葺きとなっています。
須岐神社の創建年は不詳ですが奈良時代後期に築城された多賀城(宮城県多賀城市)の近くに陸奥国総社とされる陸奥国総社宮に奥州百座の1座として祭られている事からこれ以前から祀られ、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には式内社として記載され、当初から格式の高い神社として認識されていたようです。ただし、宮城県黒川郡大和町宮床字赤坂に鎮座している鶴ケ峯八幡宮の境内社である鳴上賀茂明神宮と、鶴ケ峯八幡宮に合祀された賀茂明神も式内社須岐神社の論社とされます。
当初は宮高森に鎮座し韓鋤神社とも呼ばれていましたが建久2年(1192)に大衛村の駒場地区、大森地区、菊田地区の地頭となった児玉弥太郎が現在地に遷座し、境内には弥太郎の後裔である児玉右近が椚千本を植栽、神仏習合後は赤崎大明神と呼ばれるようになっています。
中世以後の詳細は不詳ですが仏教色が強くなったようで、正徳3年(1713)には青面金剛童子奉庚申供養碑が建立され、享保3年(1718)には雲泉寺8世住職鐘銘の梵鐘が奉納(太平洋戦争時に供出)、文化10年(1813)には申子碑が建立されています。
歴代領主からも崇敬庇護され、絵馬などが奉納され(最古のものは寛保元年:1741年)、延享3年(1746)には仙台藩6代藩主伊達宗村の病気平癒の祈願が行われています。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、旧社号である「須岐神社」に復して明治5年(1872)に郷社に列し、明治43年(1910)に神撰幣帛料供進社に指定されています。祭神:素盞明尊。
須岐神社:上空画像
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典4[宮城県]-株式会社人文社
・ 現地案内板(由緒)-大衡村教育委員会・大衡村文化財保護審議会
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