塩釜神社

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概要・歴史・観光・見所

塩釜神社概要: 塩釜神社の創建は不詳ですが武甕槌命と経津主神が陸奥国を開発した際、先導だった塩土老翁神が当地に製塩の技術を授けた事から住民が感謝して祀るようになったと伝えられています。

塩釜神社の祭神である塩土老翁神は海幸山幸神話でホオリ(山幸彦)の相談役、先導役、神武東征神話では東に豊かな土地がある事を神武に助言した神として登場した神として知られています。

塩釜神社の由緒では塩土老翁神の先導により武甕槌神(常陸国一宮である鹿島神宮の祭神)と経津主神(下総国一宮である香取神宮の祭神)を当地まで導き、両神が去った後も当地に留まり製塩方法や漁業を教えたとしています。塩土老翁神は海の神や、海路の神とされる為、古代では最先端の高度の知識を持つ船舶の先導役という大きく影響力があったのかも知れません。

しかし、塩土老翁神は塩釜神社の主祭神であるはずなのに本殿では無く、別宮で祭られている極めて珍しい奉斎方法で、事情を知っている氏子はまず最初に別宮を参拝してから本社(拝殿・本殿)に詣でるそうです。実際は江戸時代中期頃まで武甕槌神と経津主神が主祭神として認識されていたからこそ本殿に祭られていた事が原因で、その後、主祭神を塩土老翁神に変更、又は復した事で現在見られるような形式になったとされます。

一方、江戸時代中期の正徳2年(1712)、大坂の医師寺島良安によって編纂された「和漢三才図絵」によると「陸奥の鹽竃六所大明神 在千賀浦(宮城県塩竈市にある古代の国府津:現在の塩釜港) 祭神一座 味耜高彦根命」とあり、同時期の延宝6年(1678)に塩釜神社に参拝した橘三喜が著した「諸国一宮巡詣記」にも「奥州一宮宮城郡鹽竈大明神高彦根命」と筆している事などから、以前は味耜高彦根命が祭られていた事を示唆しています。

又、陸奥の塩釜神社から分霊を勧請した各地の塩釜神社に味耜高彦根命を祭る例も散見出来、塩釜神社と同じく陸奥国一宮を主張する都々古別神社(馬場・八槻・石)も味耜高彦根命が祭られている為に、多賀城が築かれ陸奥国府が設置された際、分霊が勧請され塩釜神社が創建されたとの説もあります。

記録的な初見は嵯峨天皇の御代(西暦809〜823年)の弘仁11年(820)に編纂された「弘仁式・主税式」で「鹽竈神を祭る料壱万束」と記載されている事から少なくとも、平安時代初期には既に「鹽竈神」が祀られ、朝廷にも認識された格式の高い神社だった事が窺えます。

又、隣接する塩釜丘陵上には奈良時代後期に朝廷の出先機関である多賀城(宮城県多賀城市)が築城され、陸奥国府が設置されている事から、関係性が深い存在だったと思われます。

延長5年(927)に編纂された「延喜式・主税式」でも同様に祭祀料壱万束の寄進を受けた事が記載され、全国の名社と呼ばれる神社と比べても圧倒的な司祭料で相当な格式だったと思われます。一方、壱万束という莫大な祭祀料を寄進を受けている神社にも関わらず、有力官社が列記されている延喜式神名帳には記載されておらず、謎の1つとなっています。

平安時代後期になると陸奥国は奥州平泉(現在の岩手県平泉町)を本拠とした藤原氏の支配下に入り、塩釜神社も庇護になったと思われます。文治5年(1189)、奥州合戦により奥州藤原氏が滅亡すると鎌倉幕府が庇護し、文治6年(1190)には神領の保護を保障、建久4年(1193)には「一宮塩竈社」宛ての文書を発給し、幕府からは塩釜神社を陸奥国一宮として格付けされていたようです。

その後は陸奥留守職に任じられた伊沢氏やその後裔である留守氏が崇敬庇護し、留守氏は塩釜神社の神官を兼任し周辺の御家人よりも上位に格付けされ、次第に大きな影響力を行使出来るようになっています。しかし、南北朝の動乱で南朝方に与した事で大きく後退し戦国時代には伊達家に従うようになっています。

留守氏の勢力が減退すると、奥州管領として台頭した斯波家や吉良家の庇護を受け、社領の寄進や社殿の造営、鳥居の奉納などが行われました。しかし、その後衰微したようで、室町時代初期に編纂された「諸国一宮神名帳」では陸奥国一宮が塩釜神社だったものの、室町時代後期(16世紀)に編纂された「大日本国一宮記」では都都古和気神社(福島県棚倉町)に変更されています(塩釜神社は式外社だったから外されたとも、政治的な判断だったとも?)。

江戸時代に入ると塩釜神社は仙台藩主伊達家によって篤く崇敬庇護され、初代藩主伊達政宗は慶長12年(1607)に社殿を造営し、元和5年(1619)には社領24貫336文を寄進、寛永13年(1636)には2代藩主伊達忠宗が鐘楼を造営、慶安3年(1650)には長床を修復しています。

3代藩主伊達綱宗は寛文3年(1663)に社殿の大改修を行い、寛文4年(1664)には拝殿を修復、4代藩主伊達綱村は元禄8年(1695)に社殿の造営を計画し着手し、5代藩主伊達吉村の代に竣工しています。

その後も文化6年(1809)に9代藩主伊達周宗が銅鐵合製燈籠(鋳物師:早井義幹、大出治具、田中清直、及川庄七・文:田辺匡敕・高さ:約4.8m)を奉納するなど仙台藩主からの庇護は続きました。

信仰も広がり元禄2年(1689)5月8日には松尾芭蕉と随伴した河合曾良も奥の細道の際に塩釜神社に参拝に訪れ、門前町で宿泊した事が「曾良旅日記」に記載されています。

その後も塩釜神社は社殿の改修、修復、社領の加増が加えられ社運も隆盛し仙台藩では別当寺院である法蓮寺に「一門格」という最高位の格式を与えています。

古くから神仏習合し室町時代以降は「光明山 法蓮華院 法蓮密寺」が別当寺院として祭祀を司り仙台藩伊達家の祈願寺として庇護を受けていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により明治3年(1970)に法蓮寺は廃寺に追い込まれています。

明治4年(1871)に志波彦神社が国幣中社に列し、明治7年(1874)に志波彦神社が別宮本殿に遷宮された事を受けて塩釜神社が国幣中社に列しました。

祭神:武甕槌命(左宮)、経津主命(右宮)、鹽土老翁神(別宮)

塩釜神社の社殿
・ 本宮本殿(鹿嶋社)-宝永元年-三間社流造、素木造檜皮葺-国指定重要文化財
・ 本宮本殿(香取社)-宝永元年-三間社流造、素木造檜皮葺-国指定重要文化財
・ 拝殿-宝永元年-入母屋、銅板葺、朱漆塗、7×4間-国指定重要文化財
・ 回廊-宝永元年-銅板葺、朱塗-国指定重要文化財
・ 中門-宝永元年-切妻、銅板葺、四脚門、朱塗-国指定重要文化財
随身門-宝永元年-入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚楼門-国指定重要文化財
・ 別宮本殿-宝永元年-三間社流造、素木造檜皮葺-国指定重要文化財
・ 別宮拝殿-宝永元年-入母屋、銅板葺、朱漆塗、5×3間-国指定重要文化財
・ 別宮回廊-宝永元年-銅板葺、朱塗-国指定重要文化財

塩釜神社の文化財(社殿以外)
・ 太刀 銘 来国光(附:糸巻太刀拵)-鎌倉時代末期-国指定重要文化財
・ 太刀 銘 雲生(附:黒漆太刀拵)-鎌倉時代末期-国指定重要文化財
・ 鹽竈神社の鹽竈ザクラ-花弁が約40片の大輪の八重ザクラ-国指定天然記念物
・ 藻塩焼神事-宮城県指定無形民俗文化財
・ 伊達家歴代藩主奉納糸巻太刀三十五振-宮城県指定有形文化財
・ カマ神(竈神面:土製5体,木製5体)-江戸時代-宮城県指定有形民俗文化財
・ 四口の神釜-鎌倉時代と南北朝時代-塩釜市有形民俗文化財
・ 老杉 御神木-推定樹齢600年、樹高約31m-塩釜市指定天然記念物
・ 銅鉄合製燈籠 文化燈籠-塩釜市指定有形文化財
・ 塩竈神楽-塩釜市無形民俗文化財

塩釜神社:上空画像

唐門を簡単に説明した動画

八脚門を簡単に説明した動画

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典4[宮城県]-株式会社人文社
・ 現地案内板-NPOみなとしほがま
・ 現地案内板-塩釜市教育委員会
・ 現地案内板-塩釜市観光協会・塩釜市物産振興協会
・ 現地案内板(由緒)-塩釜神社


塩釜神社:ストリートビュー

塩釜神社:本殿・拝殿・写真

大鳥居
[ 付近地図: 宮城県塩釜市一森山 ]・[ 宮城県: 神社建築 ]
表坂 随身門 参道 唐門・廻廊
左右宮拝殿 左宮本殿(鹿嶋社) 右宮本殿(香取社) 別宮
塩釜神社参道沿いにある石鳥居 塩釜神社参道にある長い石段 塩釜神社参道両側の石垣と大木 塩釜神社石畳み沿いにある石鳥居と石燈篭
塩釜神社銅製燈篭とのぼり旗 塩釜神社参道石段にある銅製燈篭と石造狛犬と燈篭群 塩釜神社とてつもなく急こう配の石段 塩釜神社の神輿


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