多賀城

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多賀城市・観光・歴史・名所
多賀城概要: 案内板によると「多賀城跡は、この附近の丘陵一帯の市川、浮島両地区にかけて所在しています。仙台平野の北端に位置しており、南に太平洋を望むことができます。東には国府の港と推定される塩竈の港をひかえるなど、古くから交通の要衡でした。今からおよそ1300年前、奈良時代前半に陸奥国の国府として創建された多賀城は、鎮守府としての役割も果していました。多賀城は、周囲が堀(おもに築地土塀)をめぐらし、その痕跡は現在でも土手状の高まりとして残っています。多賀城の平面形は、不整方形をなし、広さはほぼ方八町に相当します。そのほぼ中央部に重要な政務や儀式が行われた政庁があります。・・・(後略) 多賀城市教育委員会」 とあります。

多賀城は神亀元年(724)に大野東人により築かれたのが始まりとされます。大野東人は奈良時代の武人で養老4年(720)に当地で発生した蝦夷の反乱を鎮圧すると、多賀城を築き蝦夷が支配している陸奥国侵攻の重要拠点としています。一方、日本海側の大和朝廷の勢力拡大に尽力し、天平5年(733)に出羽柵(秋田県秋田市:後の秋田城・一時出羽国府設置)を築城、さらに、多賀柵(後の多賀城)と出羽柵を結ぶ官道を開削しています。又、多賀城の隣地には陸奥国総社多賀城廃寺、北東の鬼門方向には鬼門鎮守として塩釜神社が創建され、陸奥国の政治、軍事、文化の中心として整備、拡張されました。しかし、宝亀11年(780)には蝦夷の指導者と思われる伊治呰麻呂が反乱(伊治呰麻呂の乱・宝亀の乱)を起こし、多賀城は一時俘囚により占拠され、略奪の上で城を放火され大きな被害を受けています。乱は数年に及んだとされますが、その後、鎮圧され多賀城も修復されたと思われます。蝦夷侵攻が本格化すると多賀城よりもさらに北部に城柵が築かれ、軍事的な拠点は胆沢城(岩手県奥州市胆沢区)に遷し、多賀城は政治的な中心として征夷大将軍に就任した坂上田村麻呂などが赴任しています。平安時代後期に陸奥国俘囚の反乱である前九年合戦や、その後、出羽国、陸奥国の豪族達の対立である後三年合戦でも鎮守府将軍となった源頼家や源義家が多賀城を拠点としています。南北朝の争乱時には南朝に属し多賀城には陸奥将軍府が設置され陸奥守に任じられた北畠顕家や北畠親房、義良親王などが赴任しましたが、多賀城の落城すると陸奥将軍府は霊山城(福島県伊達市)に移され、多賀城は廃城になったと思われます。多賀城は古代陸奥国の歴史に大きく寄与している事から極めて貴重な存在で昭和41年(1966)に国指定特別史跡に指定され、平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。

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