陸奥総社宮(多賀城市)概要: 陸奥総社宮は宮城県多賀城市市川字奏社に鎮座している神社です。陸奥総社宮は案内板によると「醍醐天皇の延喜年中勅して全国より由緒正しき社、3132座を神名帳に載せらる。内188座を大社とし、他を小社とす。之を延喜式内社と称し国司に命じて幣帛を供進せしめしが後に参進の便を図り之を各国府の地に合祀して総社という。当社は即ち陸奥国100座を、合祀する陸奥総社なり、奥州留守職伊沢氏三千刈田の斎田を寄せ、後村上天皇の未だ陸奥の太守として多賀の国府に、在せし時、神護祈念を当社に懸け給う。伊達政宗公以来、歴世祈願の事あれば藩主自ら社参するを例とせり、当社は此の如く多賀国府と不可分の史跡にして東奥鎮護の大社なり。 (三原良吉誌す)」とあります。
陸奥総社宮の創建等は不詳ですが、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載された多賀神社の論社で、これが事実とすれば平安時代には既に勧請されていたと思われます(多賀神社の論社は複数あり高崎多賀神社、市川多賀神社、浮島神社が論社とされます)。
総社は一般的に平安時代後期に国司の祭祀を簡易にする為に、国内の有力神社の分霊を勧請し一か所に集めた宗教施設ですが、当社がその役割を持ったのかは不詳、一説には塩釜神社が総社だったという説もあります。
中世は陸奥留守職を歴任した伊沢氏(留守氏)から崇敬庇護され、社領3千刈が寄進されていました。江戸時代に入ると仙台藩(藩庁:仙台城)の藩主伊達家から庇護され、社殿の造営や修繕が行われています。
塩釜神社とは関係が深く、塩釜神社に参拝する際には、陸奥総社宮で参拝する旨を述べてから塩釜に向かったとされ、藩主から一般庶民までその習わしに従ったそうです。又、塩釜神社の十四末社の一つでもあり、貞享4年(1687)に社殿を再建した際の棟札には鹽竈神社末社「奏者明神宮」と記されています。
明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て、明治4年(1871)に村社に列し、大正12年(1923)には神饌幣帛料供進神社に指定されています。陸奥総社宮拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行3間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造板張り。本殿は一間社流造、銅板葺き。祭神:八塩道老翁神、八塩道老女神。
陸奥総社宮:上空画像
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