柴田町(歴史)概要: 柴田町は白石川と阿武隈川の合流地点にある交通の要所として、経済的、防衛的の重要視されてきた所です。地形上、海洋性気候の影響もあり冬でも雪が積もりにくく、比較的早くから人々が住み着き始めました。
柴田町周辺では上川名貝塚や松崎貝塚、深町貝塚など多くの貝塚が存在しており、それ以降の時代でも炭釜横穴古墳群や十八津入古墳群、剣塚古墳など小規模ながらも多くの古墳が見られ、それぞれが柴田町指定となっています。
中世になると芝田氏や四保氏、屋代氏などが周辺を柴田町周辺を支配する一方、富沢磨崖仏群で見られる仏教文化も見られるようになります。鎌倉時代初期から彫られ続けた磨崖仏が何故富沢なのかは分かりませんが、ここが仏教の聖地的存在だった事を裏付けています。
戦国時代末期となると伊達氏の影響化となり、軍事的配慮から、重臣である原田氏が船岡城の城主となり仙台への入口の要となります。
しかし、寛文11年(1671)に当時の城主だった原田甲斐は伊達騒動の首謀者の1人とされ伊達家家臣に惨殺され改易されます。その後一国一城令で要害となり、新たに柴田氏が領主となり明治維新まで続きます。又、参勤交代制度が確立すると、奥州街道の交通の要所だった槻木は宿場町として整備され多くの商人な宿場関係者で軒を連ねたそうです。
一方船岡でも柴田氏の良政で城下町が発展し現在でも柴田氏の菩提寺である大光寺や山本周五郎が伊達騒動を描いた「樅の木は残った」に登場する麹屋又左エ門の屋敷とされる「麹屋」などが残り当時の繁栄を伝えてくれます。
戊辰戦争では仙台藩は奥羽越列藩同盟に加わり敗北を喫しますが、官軍側の兵士が白鳥を捕殺した所、柴田町や村田町では白鳥は神の使いという白鳥信仰が盛んだった事で、柴田家家中と揉め事が起こります。世に言う「白鳥事件」で家中で事件に関与した者は厳罰に処せられ、当時の柴田家当主も責任を取って切腹しました。
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