大崎市岩出山(歴史)概要: 大崎市岩出山の天王寺追分には出羽街道と上街道の分岐点がある事から、岩出山付近は古来より交通の要所となっていたようです。その為か岩出山には推古天皇元年(593)には国内の4か所に建立された四天王寺の1つが建てられ、前九年合戦の折には源義家が鍋倉山八幡神社に戦勝祈願するなど歴史の古さを感じる事が出来ます。
中世に入ると岩出山(岩手沢)は大崎氏の支配下に入り軍事的拠点の1つとして重視され、家臣である氏家弾正が岩手沢城(後の岩出山城)を築きます。しかし、大崎氏は戦国時代末期、豊臣秀吉による「小田原の陣」に参加しなかった事から奥州仕置きにより改易となります。
大崎氏はこの処置に不服で葛西氏など共に大一揆を起こし(伊達政宗の陰謀説が有力)各地で反乱し、徳川家康や伊達政宗が鎮圧にあたります。岩出山にある実相寺には徳川家康が40日間滞留したと伝えられ、家康から500石の御朱印地を寄進を受けています。
一揆制圧後、伊達政宗が会津若松城(福島県会津若松市)から岩出山へ領地替えとなり、それに先立ち家康の家臣榊原康政が岩出山城(岩手沢城)を改築し政宗を迎え入れます。
政宗は岩手沢を岩出山に改名し、会津若松や米沢(山形県米沢市)から多くの寺院を呼び寄せ城下町建設に精を出し12年間統治を行います。
関ヶ原の戦い後の慶長8年(1603)に政宗の仙台開府に伴い多くの寺院は仙台へ随行しますが、岩出山の歴史性や交通の要所の意味合いからも重要視され四男宗泰が1万5千石で岩出山を統治しする事になります。
一国一城令により岩出山城は要害となりますが、有備館の整備など教育や、都冷泉家より御輿入れがなされると回遊式池泉庭園などの京文化や地場産業などにも力を入れ今日に繋がる町づくりを展開しています。
明治維新後は玉造郡役所が置かれるなど周辺から中心的立場を持ち後に岩出山町が発足さらました。2006年に大崎市へ合併。現在の岩出山は旧商人町だった通りが拡幅され昔の風情が一辺しましたが、有備館や鍋倉山八幡神社、実相寺など歴史ある社寺が多く、内川周辺の散策路など整備され「小京都」として認定されています。
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