川崎町(歴史)概要: 川崎町は古くから陸奥国と出羽国を結ぶ街道が通る交通の要衝として重要視されてきた地域です。特に陸奥国の国府が置かれた多賀城(宮城県多賀城市)と出羽国の国府が置かれた秋田城(秋田県秋田市)を最短で結んでいた為、龍雲寺には陸奥国司の壇(墓)と伝わる墓碑が建立されています。
又、その関所とされる有耶無耶関では昔、鬼が住み旅人に悪さをしていたとされ、人間と好を通じていた霊鳥が鬼がいる時は「有耶」、いない時は「無耶」と鳴いて旅人や住民達に知らせていたと伝えられています。鎌倉時代以降は、源義経の家臣とされる菅原氏が土着し、砂金氏と性を変え長くこの地を支配します。
砂金氏は室町時代中期に早から伊達家に従い、特に領地が接していた最上家との戦いに功があり一族と同等な格式を得ています。江戸時代に入り仙台藩が成立すると引き続き川崎領が任され当時の領主砂金実常は慶長13年(1608)から慶長15年(1610)にかけて川崎城を築城し城下町、領内の整備を行っています。
元禄15年(1702)、砂金重常に跡継ぎが無く砂金氏が断絶すると、伊達宗興(宮床伊達家)が入封、さらに享保7年(1722)に伊達村詮が川崎2千石の領主となり以後7代に渡りその後裔がこの地を支配しました。
経済が活発になると山形城下(山形県山形市)と仙台城下(宮城県仙台市)を繋ぐ街道が重要視された為、江戸時代に入り改めて笹谷街道が整備され参勤交代で羽州街道が通行出来ない場合は当街道を利用しました。
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