船岡城跡(柴田町)概要: 船岡城は鎌倉時代初期の、正治2年(1200)に芝田次郎が源頼家家臣宮城四郎家業に攻められた事が「吾妻鏡」に記されている事からも、それ以前に築城されていたと思われます。戦国時代の天文年間(1532〜1554年)に伊達家に従った四保定朝によって改めて築城、その後は柴田定朝、屋代景頼が城主を歴任しています。
近世に入った元和元年(1615)、伊達家家老の原田宗資が城主となりますが、寛文11年(1671)に起きた伊達騒動の首謀者の1人とされた原田甲斐(宗輔)は伊達家家臣に惨殺され改易、天和元年(1681)代わって柴田宗意が5千石が領主となり明治維新まで続きます。
中世は要害堅固な山城でしたが近世に入ると一国一城令が出され船岡城も形式上は城郭とは認められず仙台藩(藩庁:仙台城)の行政区の一つ「要害」に区分けされる事になります。
原田氏が改易になると船岡城は破却された為、城郭としての機能も薄れ、天和元年(1681)に柴田氏が入封された以降は、城下町に近い三の丸に領主の居館や政庁が移される事になります。
明治初頭には廃城となり多くの建物が壊され、現在では三の丸に残る土塁や古井戸、枡形だった詰の門の坂の形状のみが当時の城郭の歴史を感じる事が出来、伊達騒動を題材とした「樅の木は残った」のモチーフとなった樅の木も城郭の一角に残されています。
現在は船岡城趾公園として整備され、山頂には船岡観音や原田甲斐の慰霊碑などあり、日本さくら名所100選に、城跡から眼下を眺める眺望は「みやぎ蔵王三十六景」に選定され、名称「四保館跡(船岡城址)」として昭和46年(1971)に柴田町指定史跡に指定されています。
船岡城址公園:上空画像
【 参考:サイト 】
・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典4[宮城県]-株式会社人文社
・ 日本の城下町2[東北(二)]-株式会社ぎょうせい
・ 現地案内板-柴田町教育委員会
・ (財)宮城県文化財保護協会
|
|