白石市: 傑山寺(白石城主片倉家菩提寺)

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概要・歴史・観光・見所
傑山寺(白石市)概要: 常英山傑山寺は宮城県白石市南町2丁目に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。傑山寺の創建は慶長13年(1608)に白石城初代城主片倉小十郎景綱公が妙心寺第十一世天心智寛大和尚を開山として建立された臨済宗の寺院です。代々片倉家の菩提寺として初代景綱からの領主と家族が弔われました。影綱が元和元年(1615)に死没すると戒名「傑山常英大禅定門」、諡「傑山寺殿俊翁常英大居士」が与えられ菩提(写真左から一枚目)は、敵に見つからないよう一本杉を墓印とし墓標を造らなかったと云われています。その後、三代片倉宗景は墓碑を白石城が望める愛宕山中腹に片倉家歴代廟所決めています。境内には十一面観世音菩薩が祀られている観音堂や谷風の墓、松前藩主松前慶広の5男(又は7男)である松前安広と子供の広国など仙台松前氏一族墓所があります。

松前安広は伊達政宗に請われ伊達家の家臣となり栗原郡清水沢と江刺郡小田代1千石が与えられ、寛永6年(1629)に白石城の城主2代片倉重長の娘である喜佐を正室として迎えた事から刈田郡長袋に居館を設けました。重長には嫡男が生れなかった為、安広と喜佐の子供である景長が片倉家の養子となり片倉家の3代目を継ぎ、2男である広国が仙台松前氏の2代を継いでいます。広国は伊達家の重臣として江戸番頭や亀千代(後の仙台藩4代藩主伊達綱村)の近侍、仙台藩3代藩主伊達綱宗の付家老、若年寄などを歴任しました。又、白石城の城主片倉家は明治時代、官軍と敵対した為、北海道へ移封した事で松前藩と関係が深かったとされます。

又、真田信繁(幸村)の娘である阿梅の方が片倉重長の継室となった為、重長が亡くなると尼となり「月心院」を創建し信繁(幸村)と重長の菩提を弔い、阿梅の方が死没すると月心院も廃寺となり、月心院で安置されていた信繁(幸村)と重長の位牌は傑山寺に遷されています。片倉重長に仕えた田村定広は(旧三春城の城主田村宗顕の子供)真田信繁(幸村)の娘である阿菖蒲を正室として迎えた為、田村家の墓所の一角には真田信繁(幸村)の供養塔が建立されています。山号:常英山。本尊:拈華釈迦如来立像。宗派:臨済宗妙心寺派。

【 傑山寺:菩提者(片倉家) 】-白石城(宮城県白石市)の城主である片倉氏の祖については諸説あり、主な説は藤原利仁の流れを汲む加藤景員の次男で鎌倉幕府の御家人である加藤景廉が祖とし、その後裔の一族が信濃国伊奈片倉村に領した事から地名に因み片倉氏を称したとされます。又、一説には信濃国一宮諏訪大社下社(長野県下諏訪町)の大祝職を担った金刺部氏の後裔の一族である金刺為重が片倉郷に住した事から片倉氏を名乗ったとされます。その後、斯波氏に仕えるようになり、鎌倉幕府の倒幕運動や足利尊氏率いる北朝方の有力武将として文和3年/正平9年(1354)に奥州管領に任命された斯波家兼に従い奥州に入ったと思われます。

戦国時代の片倉景時の代に伊達家の家臣になったとされますが、その跡を継いだ景重は何故か米沢の八幡神社の神官に就任しています。米沢の八幡神社は伊達家が篤く庇護していた成島八幡神社(山形県米沢市)と安久津八幡神社(山形県高畠町)の2説あり、成島八幡神社の周辺には片倉氏の史跡が点在してる事からやや説得力がありますが、何れにしても何故諏訪神社でなく八幡神社の神官なのか疑問があり、後に伊達政宗の片腕と呼ばれた片倉小十郎景綱も八幡神社の境内で生まれたとされます。景重と結婚した直子は前の夫である茂庭左月良直との間にもうけた娘、多喜子を連れ立って嫁ぎ、その多喜子は伊達政宗の乳母、教育係として幼少期の政宗の精神的な支えとなっています。

景重と直子との子供である片倉小十郎景綱は幼少期は政宗の傳役、成年になると側近となり、多くの戦に従軍して大功を挙げ大森城(福島県福島市)の城主に就任、天正17年(1589)の摺上原の戦いでも伊達軍二番手の将として大きな役割を担っています。天正18年(1590)の小田原の役の際には豊臣秀吉との主戦派を押さえて政宗に参陣を促した人物とされ伊達家最大の危機の回避しています。天正19年(1591)、奥州仕置により政宗は会津黒川城(福島県会津若松市)から米沢城(山形県米沢市)、岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に移封になると景綱も亘理城(宮城県亘理町)に移り引き続き伊達家を支えました。景綱の才能は広く知れ渡るようになると、豊臣秀吉も家臣として勧誘し3万石の大名昇格の条件が提示されましたが丁寧に断ったとの逸話が伝えられています。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは伊達家は東軍に与し、西軍に与した上杉景勝の家臣登坂勝乃(甘粕景継の甥)が城代として守っていた白石城(宮城県白石市)を急襲し僅か2日で落城させています。その後、上杉勢も白石城の奪回に兵を向けますが伊達勢は周辺農民等を利用して堅守しています。東軍の勝利で終わると白石城は伊達家が支配し慶長7年(1602)には片倉景綱が城主に就任し、以後、明治維新に至るまで片倉家が城主を歴任しています。又、慶長19年(1615)に一国一城令により仙台藩の多くの城郭は「城」ではなく陣屋構えの「要害」となりましたが、白石城は本城である仙台城の支城として例外が認められ、さらに江戸にも仙台藩邸とは別に屋敷が与えられ大名並みの待遇を有しました。白石城の城下町に境内を構える傑山寺(白石市)は片倉家歴代の菩提寺で、傑山寺からは少し離れた白石城を見下ろす高台には片倉家歴代廟所が設けられています。

小原の材木岩:写真

傑山寺
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