宮城県の伝統的・町並み

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項     目 場  所 備  考
・下戸沢宿 ・宮城県
・白石市
下戸沢宿七ヶ宿街道の宿駅として整備された町で江戸時代には仙台藩(藩都:宮城県仙台市・主要藩主:伊達家)に属していました。七ヶ宿街道は羽州街道の一区間の別称で、同区間に仙台藩に属する7つの宿場町が設置された事が名称の由来となっています。出羽国諸藩は参勤交代の際、仙台藩領を通過する奥州街道を避ける傾向があった為、大部分の13藩が羽州街道を利用しました。特に久保田藩主佐竹家は21万石と出羽国内では最大(江戸時代初期は山形藩最上家が筆頭)な石高を擁していた事から羽州街道や七ヶ宿街道の整備、運営に尽力しています。下戸沢宿は仙台藩の藩境に近い事から隣の宿場町である上戸沢宿と共同で警備、防衛の任にあたり、宿場内には数十棟の足軽屋敷が構えられていましたが、大部分は半士半農に近い生活を強いられ裕福な生活は営んでいなかったようです。江戸時代後期以降は養蚕業が盛んになり茅葺屋根の2階部分が発達した民家が街道沿いに点在しています。
・村田町 ・宮城県
・村田町
村田町は古くからの交通の要衝で、中世には村田氏(下野国出身の小山業朝が地名に因み村田氏に改称)が村田城を築き周辺を支配し、戦国時代には伊達家に従っています。天正19年(1591)に村田氏が没落すると伊達家の直轄領となり、慶長18年(1613)からは初代仙台藩主伊達政宗の7男伊達宗高が領内最大級の3万石で配され、城下町として整備されます。寛永3年(1629)に宗高が死去すると村田城は廃城と、仙台藩でいう「所」に格下げとなり奥山氏や柴多氏、片平氏が領主として赴任しています。村田の地は奥州街道(五街道)の大河原宿と羽州街道の山形城下(山形県山形市)を結ぶ街道沿いだった事から多くの旅人や商人が行き交い、特に当地方の紅花や藍玉の集積場となった事から経済的な中心となり六斎市も開かれていました。これにより「村田商人」と呼ばれる多くの豪商を輩出し、地方の町には稀な豪華な土蔵造りの店蔵が軒を連ねる町並みが形成されました。又、小城下町でもあった事から武家屋敷の遺構も僅かに見られます。村田町は往時の町並みが現在でも残されている事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
・丸森町 ・宮城県
・丸森町
丸森町は阿武隈川舟運の拠点として発達した町で、江戸時代には仙台藩の藩境に近かった事から丸森城(所)を設けて隣接する金山城(要害)と共に領内防衛の要の1つなりました。丸森城は伊達家の第14代当主伊達稙宗の隠居城でもあり重要視されていた事が窺えます。江戸時代中期になると物流が盛んになり丸森港には多くの物資が集められ船荷積替え地として舟運が廃れる昭和初期まで繁栄しました。特に斎藤家は呉服商を中心に醸造業、養蚕業などでも富みを得て周辺でも知られる豪商となり、現在でも当時の屋敷が残されています。丸森町の町並みは建て替えが進んだものの、斎藤家の屋敷を中心に往時の名残が見られます。
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