刈田嶺神社奥ノ宮(蔵王)概要: 刈田嶺神社の創建は白鳳8年(679)、役小角が金峰山蔵王権現(天之水分神、国之水分神)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。
格式が高く中央にも聞こえた存在で承和11年(844)には従5位下、貞観11年(869)には従4位下に列し、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載された苅田嶺神社とされます。
歴代領主からも崇敬庇護され、平安時代には安倍氏(俘囚長)や奥州藤原氏、戦国時代には上杉家家臣甘糟氏(当時の白石城主)が社領の寄進や社殿の造営などを行っています。
江戸時代に入ると刈田岳が仙台から見て南西方向に当たる為、裏鬼門として蔵王権現社が仙台藩主伊達家は崇敬社として白石城主片倉家に命じて篤く庇護させます。
慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光から御朱印地3石8斗が安堵されますが、度々噴火によって被害を受け、特に元禄7年(1694)と寛政6年(1794)には社殿が焼失しています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、「水分神社」となり明治8年(1875)に「刈田嶺神社」に改称、郷社に列しました。
山麓の遠刈田温泉に鎮座する刈田嶺神社とは奥宮、里宮の関係で冬季雪が降り奥宮で参拝出来なくなると御神体が里宮に遷座しています。
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