刈田嶺神社(遠刈田温泉)概要: 刈田嶺神社は刈田岳山頂に鎮座する奥宮に対する里宮で当初は白鳳8年(679)に役小角が刈田岳山頂に創建した蔵王権現社の別当寺院願行寺の僧坊の1つ嶽之坊だったとされます。
一方、刈田嶺神社は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載された苅田嶺神社とされ格式の高い神として認識されていたようです(式内社苅田嶺神社については諸説有)。
願行寺は歴代の領主である安倍氏や藤原氏などに庇護された事で寺運が隆盛し、最盛期には48坊を擁する大寺として大きな影響力を持ちましたが、藤原氏が滅びると次第に衰微し戦国時代の兵火後は嶽之坊など3坊だけとなりました。
江戸時代に入ると刈田岳が仙台から見て南西方向に当たる為、裏鬼門として蔵王権現社が崇敬社となり藩主伊達家は白石城主片倉家に命じて篤く庇護します。
嶽之坊は蔵王権現社の登拝口に位置していた為、その管理が任され冬季には山頂から御神体を季節遷座し参拝出来るようになりました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、「水分神社」となり明治8年(1875)に「刈田嶺神社」に改称、郷社に列しました。
社宝である「敬明講図(蔵王町指定文化財)」は明治38年(1905)に宮城敬明講(現在の仙台市にあった蔵王山参詣講)によって奉納されたもので江戸時代後期から昭和初期まで盛んだった蔵王の御山参り(御山駆け:遠刈田温泉から山頂の蔵王大権現を参拝する神事)の様子を描いている貴重なものです。
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