旧七ヶ宿街道概要: 旧七ヶ宿街道は、案内板によると「七ヶ宿街道は、桑折宿で奥州街道から分かれ、小坂峠を越えて仙台領に入り、七ヶ宿金山峠を経て楢下宿に至る街道である。本街道の小坂峠と金山峠の間には、上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原の7つの宿場の他、関宿千浦と足軽集落である追見、それに、渡瀬の新田集落の原と10の集落があり、当時の人々は主に交通関係の仕事に従事していた。また、この地方は、仙台領の西南隅にあたり、他領に隣接する場所でもあったので、上戸沢と湯原に御番所が置かれ警備の武士や足軽も大勢いて重要な意義をもった地域であった。・・・(後略)」とあります。
当初は仙台領と米沢城(山形県米沢市)への街道として二井宿峠が使われていましたが、江戸時代初期に確立した参勤交代によって、出羽国の大名が七ヶ宿街道を使うようになると、利便性の高い金山峠が整備されるようになります(理由は不詳ですが出羽諸藩にとって仙台藩を縦断する奥州街道を利用するのを避けていたようです)。
特に出羽国の雄藩だった久保田藩の藩主佐竹家が街道の整備に尽力し、金山峠の頂上には不動堂を創建しています。
出羽国には14に及ぶ藩が存在しその内13藩が七ヶ宿街道を利用した為、各宿場も繁栄し特に中心的な宿場であった関宿の本陣は規模が大きく東海道品川宿の本陣と双肩だったとされ一晩で200名を泊める事が出来、戊辰戦争の際には所謂「関会談」が行われ歴史の舞台にもなっています。
七ヶ宿街道は参勤交代だけでなく人々の交流や遊行、物資の運搬、出羽三山(山形県鶴岡市)の参拝とかなり往来の多い街道でしたが、明治時代に東北本線と奥羽本線と鉄道が整備されると次第にその重要性も薄れ現在に至っています。
旧七ヶ宿街道:上空画像
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