村田町(商家町・在郷町)・町並み

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村田町:町並み
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【村田町】村田町の発生起源は不詳ですが、鎮守である白鳥神社は景行天皇53年(例暦123年)に日本武尊の分霊を勧請して創建され、源頼朝が奥合戦の際に戦勝祈願したと伝わる古社である事から比較的早くから成立していたと思われます。中世に入ると、京都出身の公家が当地に移り住み、その後裔が鎌倉時代後期になり村田城を築いたとされ、跡地からその当時の遺物が発見されています。室町時代の嘉吉年間(1441〜1444年)、藤原秀郷の後裔とされる小山氏(下野国小山郷の領主)の一族、小山九郎業朝が当地に流れ着き、村田城を修築、その後裔は地名に因み村田氏を称するようになり、戦国時代に伊達家が台頭すると従ったと思われます。永禄8年(1565)に伊達14代稙宗の9男宗殖を養子として迎えた事で、事実上直系の村田家は絶え、村田家の名跡を継いだ伊達一族の村田家が当地を支配するようになり、天正19年(1591)伊達政宗が豊臣秀吉による奥州仕置きにより米沢城(山形県米沢市)から岩出山城宮城県大崎市岩出山町)に移封の際、身重だった側室の新造の方(飯坂城主・飯坂宗康の2女)が移動が困難となり、村田城に入って政宗の長男で後に宇和島藩初代藩主となる兵五郎(伊達秀宗)を出産し3歳になるまで村田城で過しています。江戸時代に入ると仙台藩(宮城県仙台市:本城−仙台城)では行政区間として「城」、「要害」、「所」、「在所」の単位を設けて、藩主である伊達家一族や有力家臣を配し、村田は「所」として石川昭光が入り、元和4年(1618)には政宗の7男伊達宗高が3万石が与えられ村田城に入ります。宗高は善政を行い名君とも云われましたが、若くして天然痘で病死し、その後は一国一城令もあり城郭が縮小され「館」と呼ばれるようになり、伊達家の家臣である奥山大学、田村右京、大松沢和泉、柴多常春(以後8代)が館主を歴任して明治維新を迎えています。

【商家町・在郷町】−村田町は主要街道は通過していませんが、藩都である仙台城下や奥州街道の宿場町である大河原宿と山形城下を結ぶ笹谷街道との間道が交わる交通の要衝だった為に在郷町的な物資の集積場となりました。特に仙南地方は江戸時代中期の宝暦年間(1751〜1764年)頃から紅花や藍の栽培が盛んになった為、村田がその集荷地となり、笹谷街道を経て最上川舟運により酒田港、北前船(西廻り航路)により京都や大坂などの大消費地に運ばれました。一方、奥州街道と阿武隈川舟運を利用し江戸に運ぶ経路もあり、「村田商人」と呼ばれる豪商を輩出し、金融業や醸造業など多角経営する店も増えました。明治時代以降も引き続き当地域の経済的な中心として発展を続け、土蔵造りの店蔵や土蔵が次々に建てられ現在の商家町の町並みが形成されました。しかし、東北本線や近代交通網が整備されると、交通の要衝という重要性は失われ次第に衰微し、その後も大規模な近代化が図られなかった為、奇跡的に大型店蔵町屋建築が軒を連ねる町並みが残されました。村田町は町並みや歴史性が評価され「小京都」に指定され、国の重要建造物保存地区に選定されています。

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