| ・田手岡館は万治3年(1660)に伊達宗房によって築かれました。
伊達宗房は正保3年(1646)に仙台藩2代藩主伊達忠宗の8男として生れ、慶安2年(1649)には田手高実の婿養子に迎えられ田手家の名跡を継いでいます。
田手家は伊達家初代とされる伊達朝宗の6男・実綱が陸奥国伊達郡伊達崎の地を与えられ、地名に因み「伊達崎」姓を掲げたのが始まりとされます。
その後、本家の伊達家と「伊達崎」姓が似ていた事が嫌われ「田手」姓に改姓したと云われています。
田手氏は伊達家の一家として功績を挙げ、田手実烈の代には伊具荘惣成敗に任ぜられ伊具郡角田城を本拠地としました。
しかし、跡を継いだ田手宗光は伊達輝宗を離反し、相馬家方に転じた為、角田城を取り上げられています。
一方、宗光の子供である田手宗時は引き続き輝宗に従った為、家格は伊達家の一族衆へと降格したものの田手家の改易は免れています。
宗時の跡を継いだ宗実の代には、伊達政宗の7男である宗高が養嗣子となり、田手家の名跡を継ぎ村田城を本拠地とする柴田郡3万石の領主に抜擢された為、宗実は「小泉」姓の改姓を余儀なくされました。
寛永3年(1626)に宗高が死去すると、田手家の名跡が空いた為、宗実の跡を継いだ高実が「田手」姓に復しています。
慶安元年(1648)に高実が死去すると、慶安2年(1649)に伊達宗房が高実の娘である法林院の婿となり田手家の名跡を継いでいます。
万治2年(1659)に高実の実子である貞実が元服すると宗房は田手姓の名跡を貞実に譲った為、「伊達」姓に復し、伊達家の一門として磐井郡大原に本拠地を遷しています。
万治3年(1660)に黒川郡宮床に所領4千石を与えられると、寛文6年(1666)に居館となる田手岡館を築館、以降、当家は宮床伊達家と呼ばれました。
宗房は領内整備に尽力し、母親の菩提を弔う為に慶雲寺を開創、養父である田手高実の菩提寺だった龍岩寺を田手氏の位牌所として宮床に遷しています。
さらに、延宝元年(1673)には新田八幡宮を創建、延宝8年(1680)には田手氏の祈願所だった法花寺を宮床に遷しています。
貞享3年(1686)に宗房が死去すると、長男である助三郎が家督を継ぎ、元禄3年(1690)に元服すると仙台藩4代藩主伊達綱村から村房の偏諱を賜っています。
元禄8年(1695)に村房が一関藩主田村建顕の養嗣子になった為、弟で小梁川家の名跡を継いでいた宗辰が宮床伊達家を継ぐ事になり、名を伊達村興に改めています。
元禄15年(1702)に川崎要害を治めていた砂金氏が断絶すると、旧砂金氏領が村興に与えられた為、合計8千石となり本拠地を川崎要害に遷しています。
一方、村房は伊達綱村の養嗣子となり、元禄9年(1696)には5代将軍徳川綱吉から吉村の偏諱を賜り、元禄16年(1703)には仙台藩5代藩主に就任、村興は吉村を補佐する為、仙台城詰めとなった事から川崎要害には殆ど居なかったとされます。
享保2年(1717)、伊達吉村は田手岡館に御殿を造営、享保7年(1722)には村興に田手岡館に本拠地を遷すように命じ、享保8年(1723)に村興は宮床へ戻っています。
以後、宮床伊達家は、代々伊達家一門格、8千石を知行し、10代伊達宗広の時に明治維新を迎えています。
田手岡館は仙台藩の行政区では「所」に当たりますが、宮床伊達家は仙台藩主伊達家の一門と格式が高く、知行も8千石と石高が高かった事から、館麓には侍屋敷107軒、足軽屋敷96軒、寺屋敷4軒と小規模ながら城下町の体裁が整えられました。
一方、町場はなかったようで、宮床伊達家8代当主伊達宗規は荒物小物1戸50集、八百屋1戸、酒1戸の商売の許可を仙台藩に求め許可されています。
田手岡館は比高20m程の丘陵地に築館され、頂部には本丸、その南西側には二之丸、北東の麓には三の曲輪、東側には帯曲輪が配されていました。
三の曲輪は大手筋で正面には丸馬出、北曲輪、中曲輪が配され、主要な出入りは桝形門とし周囲を土塁と堀で囲っていました。
基本的に仙台藩の「所」は陣屋程度の構えですが、たておかやかたは、城郭といって良い程の規模を誇り、、現在も本丸の庭園跡や、堀、土塁の一部が残されています。
宮城県:城郭・再生リスト
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