| ・宮沢城が何時頃築城されたのかは判りませんが、平安時代中期の貴族、豪族、武将である藤原秀郷が拠ったと伝えられています。
藤原秀郷は下野国や武蔵国を本拠地としていますが、鎮守府将軍に任ぜられ、秀郷流流鏑馬が伝えられている事から、弓馬術に長けた俘囚とも関係があったとも云われています。
平安時代中期以後、鎮守府が形骸化した為、秀郷が陸奥国に赴任したのかは判りませんが、奥州藤原氏をはじめ、陸奥国や北関東の武将の多くが藤原秀郷の後裔を自称している事から、当地を支配し秀郷の後裔を語る土豪が伝説を流布したのかも知れません。
文治5年(1189)に発生した奥州合戦で鎌倉軍に従軍し功績を挙げた畠山重忠が陸奥国長岡郡一帯が与えられましたが、重忠が死去すると常陸国の豪族で、大掾氏の祖とも云われる、平資幹が長岡郡司に就任し、宮沢城に入ったとされます。
鎌倉時代末期頃までは平資幹の後裔が城主を歴任したと思われますが、南北朝時代に奥州管領として斯波家兼が奥州に下向すると、その後は後裔である大崎氏が当地を支配した事から、宮沢城も大崎氏の支配下に入ったと思われます。
天文3年(1534)に大崎氏の家臣である新田安芸頼遠が出仕を拒否した事が原因となり天文の内乱が発生すると大崎義直は宮沢城に入って軍勢を集め、頼遠の居城、泉沢城に侵攻しています。
天正年間(1573〜1592年)には大崎氏の家臣である葛岡太郎左衛門が城主だったと見られ、天正14年(1586)に大崎義隆の近習の新井田刑部と伊場野惣八郎との反目から発生した大崎氏の内乱の事を記録した、「政宗記」の大崎陣之事によると宮沢の城主葛岡太郎左衛門と記されています。
一方、同じく大崎氏の内乱の事を記録したと思われる「貞山公治家記録」の天正十四年(1586)条には玉造郡葛岡城主葛岡太郎左衛門と記されている事から、異なった見解となっています。
葛岡太郎左衛門は石川越前の弟で、大崎氏の内乱の際には新井田刑部隆景に同調し、氏家吉継と対立、吉継が伊達政宗に内通し援軍を請うと、太郎左衛門は師山城に入り徹底抗戦しています。
その後、宮沢遠江が宮沢城に入ったとされますが、詳細は不詳。天正18年(1590)頃は大崎氏の家臣とされる岩崎讃岐義久が城主だったとも云われています。
同年に発生した小田原の役で、主家である大崎氏は豊臣方の参陣を怠った事から、同年の奥州仕置きにより改易となり、義久は新たに領主となった豊臣家の家臣である木村吉清に従っています。
木村吉清は圧制や不手際を重ねたとされ、それを不服とした旧大崎氏の遺臣達が蜂起し、葛西大崎一揆が発生しています。
それに同調した義久は子供の主水、正助、万右衛門と共に宮沢城を接収すると、一揆に加担した岩崎伯耆、鎌田彦右衛門、飯塚次郎右衛門、芳賀蔵人等を城内に招き入れています。
豊臣方の奥州仕置き軍が一揆討伐する為に当地まで進軍すると、従軍した伊達政宗は宮沢城攻略の為、蒲生氏郷の本陣が置かれる名生城に入ろうとしたものの、氏郷から政宗が一揆を先導したと疑われた為、拒否されています。
その為、政宗は松山城に入り、ここを拠点として中田城、師山城、高清水城を次々と落とし、宮沢城に侵攻しました。
義久は周辺の川を氾濫させ、宮沢城を浮城のようにする事で敵軍の侵攻を妨げ必死の抵抗を試みましたが、万策尽き、親子四人の切腹を条件に城兵の助命を嘆願しました。
「貞山公治家記録」には「神妙ノ訴訟ナレバ、父子四人ヲ始メ籠城ノ者共ヲ助ケラレ」と記されている事から、政宗は義久の武勇と潔さ、城兵を思いやる気持ちを意気に感じたと思われます。
当地が伊達領になると、一時、後藤康之が宮沢城に入りましたが、その後は伊達家の家臣である上郡山氏が居城としています。
上郡山仲為は中津川家から上郡山影為の養子となった人物で、小田原の役の際には伊達政宗の名代として上方に赴き、豊臣方の前田利家や浅野長政に伊達家の内情を知らせる等の交渉を行っています。
跡を継いだ仲為の実弟である上郡山常為は出羽国長井庄小国城から宮沢城に入り、慶長12年(1607)に、養父の上郡山影為の菩提を弔う為、光岳寺を創建し領内整備に尽力しています。
その後は上郡山氏が城主を歴任しましたが、一国一城令後、宮沢城は一旦廃城となり、仙台藩の行政区である要害として整備されています。
上郡山氏が領地替えになると、永享4年(1747)に代わって長沼致信が1千6百石で宮沢要害に入り、その後は長沼氏が要害主を歴任し明治維新を迎えています。
宮沢城は輪郭式の平城で、東西300m、南北350mの規模で、本丸を中心に取り囲むように二之丸が配され、さらに周囲には下中屋敷が設けられていました。
二之丸の南側には南屋敷、北西には西館があり、南西に境内を構えている上郡山光岳寺と南東に境内を構えている本成山長久寺が出城のような役割を担っていたようです。
堀は概ね二重から三重に巡らせ、サイカチ川が天然の外堀に見立て、堰を切ると周囲の田圃が水没するようになっていたとされ、立春の頃には川鵜が見られた事から「鵜ヶ城」とも呼ばれました。
現在は本丸土塁の一部が残されている他、堀跡が水路として利用されています。
宮城県:城郭・再生リスト
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