| ・高清水城は「高清水物語改訂版」によると延文元年(1356年)に大崎(高泉:たかいずみ)持家、「高清水拾遺志」によると天文年間(1532年〜1554年)に大崎直堅によって築城されたと記されています。
大崎出羽守持家は大崎家三代当主大崎詮時(あきとき)の次男とされ、大崎氏の有力一族で大崎本家の府城から西方向に高清水城が位置していた事から「大崎西殿」と呼ばれました。
後裔は「高泉」又は「高清水」姓を掲げたとされますが、長く文献上からは確認出来ない事から一時断絶していた可能性があります。
「高清水拾遺志」には高清水城の城址について「当塁大崎左京太夫義兼二男左京太夫義直弟高清水木工権頭直堅之ヲ築卜云」や「高泉家譜二日大崎左京太夫従五位上義直弟直堅達天聴木工権頭二任ジ高清水ヲ領而居城卜為ス」、「高清水直堅天文年中今ノ御要害初メテ築キ、天正十四年之改テ居住ス然バ延文ヨリ爾来明城ナルヤ又山城ニテ住悪シク今ノ御要害新二築シカ」と記されています。
大崎直堅は大崎家9代当主大崎左京太夫義兼の次男で、7代当主大崎教兼の子供である定家が高清水家に入嗣し、その娘と結婚した事で高清水家の家督を継いでいます。
天文3年(1534年)に大崎氏の家臣である新田頼遠が出仕を拒否し大崎義直がそれを粛清する「天文の内乱」が発生すると高清水(高泉)直堅は古川持熈と共に頼遠方に与しました。
当初は反乱軍が優勢でしたが、義直は伊達稙宗に援軍を要請、天文5年(1536年)に古川持熈の居城である古川城が落城し持熈が討死すると形成は逆転し直堅も降伏しています。
天正18年(1590年)に発生した小田原の役で本家の大崎氏は領内が不穏だった事もあり豊臣方に参陣出来なかった事から、同年の奥州仕置きにより改易になった為、直堅の跡を継いだ高清水高景は完全に伊達家の家臣に組み込まれました。
当地は木村吉清、木村清久父子に与えられたものの、不手際が続いた事で、改易となった大崎氏や葛西氏の遺臣が中心となり葛西大崎一揆が発生しました。
葛西大崎一揆は旧大崎領と旧葛西領で大規模に発展した事から木村父子だけでは対処が出来ず、豊臣方の奥州仕置き軍が当地に派兵されました。
高清水城は一揆勢によって接収されましたが、伊達政宗が奪還に成功し12月16日に着陣、この時に浅野長政から打合せをしたいとの書状が届き、12月17日には高清水城を出立し松山城を経て長政が待つ杉目城(福島城)に到着しています。
天正19年(1591年)に伊達政宗が米沢(現在の山形県米沢市)から岩出山(現在の宮城県大崎市)に移封になると当地も伊達領となり慶長9年(1604年)には涌谷城の城主だった亘理重宗に隠居領として与えられています。
慶長11年(1606年)に政宗と愛妾である香の前との子供、宗根が高清水城で隠居していた重宗の末娘を娶って婿養子となり亘理家の名跡と高清水城の城主を継いでいます。
宗根は慶長20年(1615年)に発生した大坂の陣で戦功を挙げ陸奥国栗原郡沼崎・鶯沢の一部が加増され、元和4年(1618年)には生母の香の前を高清水城に迎え入れています。
一国一城令が発令されると、仙台藩では藩庁が置かれた仙台城と有力支城だった白石城の2城以外は城郭では無くなり、高清水城は仙台藩の行政区分である「要害」に改められています。
その際、外堀の南側半分が埋め立てられたようで、江戸時代中期の絵図ではかなり歪な形状となっています。
宝暦7年(1757年)、5代当主亘理倫篤(たねあつ)が佐沼要害に移封になると、石母田興頼が入封し、その後は石母田氏が要害主を歴任し明治維新を迎えています。
明治4年(1871年)に執行された廃藩置県により高清水要害は廃され、その後は石母田氏の邸宅として利用されましたが、明治6年(1873年)に学制が執行されると屋敷の一部を小学校教場として開放しています。
高清水城は陸前丘陵を構成する築館丘陵の標高20m程の末端部に位置する平城です。
城域は東西約400m、南北約250m、南東隅の本丸は東西約113m、南北約184m、周囲には幅9m〜31m、深さ約7.2m〜10.8mの堀が廻っており、二之丸の西側中央には櫓門風の八脚門である大手門、本丸の南西隅には四脚門と思われる詰之門が設けられていました。
高清水城は概ね二重の堀で囲われ北側に流れる善光寺川と南側を流れる小山田川を天然の外堀に見立てていたようで、城下町は奥州街道の宿場町である高清水宿として町割りされています。
現在は高清水中学校や宅地、畑地等で利用されている為、多くの遺構は失われましたが、二之丸北側の堀と土塁の一部が残され高清水城外濠公園として整備されています。
宮城県:城郭・再生リスト
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