| ・若林城の前身である小泉城は戦国時代に国分盛重が築いたとも云われています。
国分盛重は伊達晴宗の子供として生まれましたが、天正5年(1577)に伊達氏に従属した国分氏の代官として派遣され、その後、国分氏の名跡を継いでいます。
当時の国分氏の居城は千代城(現在の仙台城)でしたが、盛重は小泉の地に要害を設けて、本拠地を遷したとされます。
一方、小泉の地には二つの城があったとも云われ、一つは東西40間、南北38間の規模で、結城朝光の後裔である結城七郎が城主を務め、天文年間(1532〜1555年)は国分盛氏が居城として利用しています。
もう一つの城は東西58間、南北38間の規模で、堀江伊勢や堀江平九郎、国分盛重等が城主を務めたとされます。
上記の3つ、或いは2つの城は規模が異なる事から、別々の城とする説と、同一敷地に建て替えられた説があります。
いずれにしても、国分盛重は慶長元年(1596)に伊達家を出奔し、佐竹義宣の家臣となり当地を去った事から小泉城は廃城になったと思われます。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原合戦の際、伊達政宗は東軍に与し勝利に貢献した事から、加増を受け仙台藩を立藩、慶長6年(1601)には仙台城を築き藩庁、藩主居館としています。
しかし、仙台城は籠城戦を意識した実戦的な山城で、日常生活には不便だった事もあり、政宗は仙台城の天然の外堀に見立てていた広瀬川の対岸に屋敷を設けて、そこでの生活が多くなったとされます。
一国一城令が施行された後でしたが、本格的な居館が計画され、表向きは城郭では無く「屋敷構」として寛永4年(1627)に幕府の許可を得る事が出来ました。
政宗は形式上は隠居していませんでしたが、老齢で藩政の実務は跡継ぎである伊達忠宗が行っていた為、事実上の隠居城だった事から幕府も特例として認めたようです。
寛永5年(1628)には竣工し、政宗が移り住むと地名を「若林」に改称し、伊達家の家臣団の一部も周辺に屋敷を構えた為、城下町が形成されました。
寛永13年(1636)に政宗が死去すると、若林城は廃城となりましたが、直ぐには取り壊されなかったようで、同年12月には若林御牒蔵が火災により焼失し多くの記録や文書等も失われています。
寛永15年(1639)には城内にあった焼火間、虎間、御納戸、茶道部屋、御鑓間、上台所、御風呂屋、大台所、小姓間、御用間、肴部屋、御鷹部屋、算用屋等の施設が仙台城二之丸に移築されています。
その後、若林城の跡地は薬園として利用されたようで、享保4年(1719)には松岡新左衛門等の領内の商人達は若林薬園に薬種植え付けや利用を仙台藩に願い出ています。
歴代仙台藩主も関心を寄せ、中でも伊達宗村は寛延元年(1748)と寛延2年(1749)、宝暦3年(1753)の3度にわたり若林薬園を訪れており、関心が高かった事が窺えます。
明治4年(1871)に仙台藩が廃藩になると桑の苗木等が植樹されましたが、明治11年(1878)に警視庁に売却され、明治12年(1878)には宮城集治監が建てられています。
若林城は単郭式の平城で、東西約420m、南北350m、周囲を高さ5〜6m程の土塁と幅30m程の堀で囲い、形式上は屋敷構えだったものの実際は城郭と同等の規模を有しました。
特に北東隅と南東隅、北西隅、南側は張り出しを設け、城に張り付いた敵兵を側面から攻撃出来るような工夫が施され、櫓等、攻撃の起点となるような施設もあったようです。
又、政宗が存命の頃には西曲輪等もあったようですが、寛永13年(1636)に死を悟った政宗の命により若林城は堀一重を残して、西南に杉の苗木を植樹し、その他を田畑するように命じたとされ、現在見られるような単郭になったと思われます。
現在も土塁と堀の一部が残され、松音寺の山門は若林城の城門の一つが移築されたものと伝えられ、唯一の遺構とされます。
宮城県:城郭・再生リスト
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