| ・富沢館が何時頃築かれたのかは判りませんが、江戸時代の館主である入生田家が所有する「入生田家之故実」によると粟野大膳によって造営されたと記されています。
粟野氏は元々北陸地方に住し鎌倉幕府執権北条氏に仕えていましたが、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏に従って功績を挙げた事で、陸奥国名取郡北方三十三郷を賜っています。
当地に土着すると、戦国時代には当地域を支配する国人領主となり、北目城を居城として北上を画策する伊達家と対峙したものの、その軍門に下っています。
戦国時代の館主だったと思われる粟野氏の家臣である富沢伊賀守は伊達家との合戦に及んだものの、和賀河(笊川)の深みに足を取られ討死、その場所は伊賀淵と呼ばれるようになったと伝えられています。
当地が伊達領になると、伊達家に従った山岸肥前宗成が富沢館に入ったとみられ、「伊達正統世継考」によると天文6年(1537)の条に「富沢邑、名取郡にあり 山岸肥前宗成居住」と記されています。
山岸氏は、藤原武蔵守秀郷の後裔、安積大膳大夫成久の子孫で、元々は出羽国置賜郡長井庄入生田(現在の山形県東置賜郡高畠町入生田)を本貫としていました。
室町時代には既に伊達家に従っていたようで、寛正4年(1467)には一族と思われる伊達家臣入生田丹波正明が入生田村に館を築いたとの伝承が伝えられています。
記録的は永正十三年(1516)六月一八日に山岸長門守宛てに発給された伊達稙宗安堵状案に、「下飯坂方より買地、屋代之庄文殊寺の内丹波在家一宇」、「小梁川又四郎より買地、上長井平柳郷の坂水在家一宇」と記されている事から山岸家が伊達家に従っていた事が窺えます。
その後、宗成の跡を継いだと思われる山岸三河守成宗も富沢館の館主だったとみられ、仙台人名辞典によると、山岸修理之助定康は「名取郡富沢邑主山岸三河守宗成の子供」と記されています。
定康は慶長年間(1596〜1615年)前後に現在の宮城県仙台市青葉区下愛子に位置している西館に遷ったとみられ、慶長3年(1598)には同地に鎮座している諏訪神社の社殿を造営した際の棟札に大旦那の1人として名を連ねています。
又、定康は慶長10年(1605)に、現在の宮城県仙台市若林区土樋1丁目に境内を構えている西光院を父親の宗成の冥福祈願の為に京都智積院の末寺として開創しています。
その後、山岸氏は旧本貫地の出羽国置賜郡長井庄入生田に因み「入生田」姓に改姓し、その初代となる入生田清康が再び富沢館を居館としています。
清康の跡を継いだ入生田三右衛門元康は、寛永13年(1636)に伊達政宗の死去に伴い殉死しています。
その後も入生田氏は仙台藩士として藩主の伊達家に仕え、富沢館を在郷屋敷として利用しています。
富沢館は東西約370m、南北約300m規模の平城で、「入生田家之故実」によると「西に三重、南に弐重、北に和賀河ともに二重也。土手形共に右に同じ」と記されています。
富沢館は主郭を中心に外郭がそれを取り囲み、西側は西館と呼ばれ、以前は入生田家の菩提寺である西光寺が境内を構え、入生田家の墓碑が建立されていました。
東側には馬場、その他は家臣屋敷が配され、主郭の出入りは虎口、外郭の東側に大手門、西側に搦手門、北側と西側に流れる名取川の支流である笊川が天然の外堀に見立てられていました。
近年まで、堀の一部や門址等が残されていましたが、開発工事に伴い、埋め戻され、それに付随した土塁のみが保存される事になったようです。
土塁は主郭の北西に「く」の字に位置し、長さ約140m、幅約13m、高さ約2m、仙台市内に残る中世の平城の中では最も保存状態の良い土塁の遺構で貴重とされます。
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